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しがらみがないからこその変革 ~『秋田よ変われ』より・その6~

「秋田よ変われ」著者の寺田健一です。去年の10月、東京の市ヶ谷で開かれた故郷の中学校の同窓会で、勝手に「姉」と尊敬している方に久しぶりに再開し拙書を贈呈しました。法曹界に進んだその方は秋田地方裁判所の所長を務めたこともあり秋田への思いは強く、タイトルを目にした途端、辺りをはばかることなく「そう、そうなのよ。秋田は変わらなければ」と声を高め「今一番秋田に求められていることは変わること」だと力を込めたのです。
寺田知事の12年間を俯瞰するとまさしく変化への挑戦でした。取材の最後に当時、参議院議員となっていた寺田氏に長時間のインタビューをお願いしました。言葉の端々に「秋田を変えなければ」の意気込みが伝わってきました。このインタビューは「終章 エピローグ これが真相だ」にまとめました。寺田氏は質問に率直に答えてくれました。この中から「秋田よ変われ」の挑戦をいくつか抜き出し紹介します。



■県木住の清算の真相

 ― 初の選挙中にも、県木住の問題が出て、既に倒産状態だったと思うのですが、そこで知りたいのが、当時の佐々木知事と池田副知事は、潰れそうだと分かった上で、秋田銀行とか農林中金とかに頼んで融資させ、結局みんな焦げついて終わっているんですけど、なぜ知事があんなことまでしなければならなかったのかと。
寺田 行政体というのは、一旦そういうことに手を付けてしまうと、倒産させられないんですよ。そういう行政文化なんだよな。行政体が出資しているところで破産させられたところってありますか。あんまりないでしょう。そのほかに、県のOBも顧問をやってたくさんの給料をもらったりもしているしね。県木住という会社は放漫経営だったから、東京に行けば銀座で飲み食いさせたり、そういうやり方をしておったんです。それにバブルが破裂して、デフレになって不動産が売れなくなった。
 ― 新会社を助けるために基金を創設している。そんなことまでやるんですか。
寺田 どんな手でも使うでしょう、苦しくなれば。林務部の連中なんか書類を持ってこないんだから。
 ― どういう意味ですか。
寺田 隠しちゃって。私は50歳まで企業経営やっておったから、貸借対照表を見ればすぐ分かることだから。林務部長は国から来ている人なんで「お前は早く国に帰れ」って(笑)。林務部も廃止にしたでしょう。農林水産部ということになったんだけれど。いや、でもその部長も気の毒なことで、前の人のを引き継いだだけで。役所っていうのは、2年とか3年でみんな部署を変わっていくから、みんな責任が無くなっちゃうんだよな。それで曖昧模糊にしてしまう。だけども、簡単な言い方すると、まず被害者、つまり住宅を買って、地盤沈下して、家が傾いたとか、そういう人たちに対しては、やはりもう、住宅を買うっていうことは、一生掛かっている仕事でしょう。その人の一生を無くすようなことなんだよな。秋田県自体の信用回復のためにも、真剣に取り組むことが必要だった。だから恐れ入ったのは、傾いた住宅を修復するために、ボランティアで大工さんだとか皆が現地に赴いて、延べ何百人だか忘れたけれども、それをやってくれたのがね。やっぱり行政体は、そういう凄いところを見習わなければならない。自分たちは高い給料をもらっていて、のほほんとしてこういう会社を作る、お前たちが一番良くないんだ。それから秋田銀行も北都銀行もそれぞれ50~60億円ずつ欠損処理したんだけれども、それはやっぱり貸主責任だと。いくら県庁から言われても「出せないものは出せない」と言えば良いんだよ。両頭取にもはっきりそう言いました。県木材の社長を呼んですぐ破産宣告させて、管財人を置いてやったけど、ほとんど何も金は無かった。まぁ、こういう強烈な知事が出てくるとは思わなかっただろうね。それはやっぱり私はしがらみが無いからでしょう。

■畜産開発公社問題の真相
 ― 畜産開発公社の乱脈経営を一目で看破したようですが。
寺田 畜産開発公社というのは何十年もの歴史のあるものでね。帳簿操作をしていかなければならない人達が、ずっと何十年も決算を粉飾して正常な形に見せていた労力、エネルギーというか、だったらもっと良い牛を作って、そっちの方に力を入れれば良かったんだよ。畜産開発公社の人たちに「嘘をつく苦労は止めなさい、卒業しなさい」と。業務報告書を一読したら、減価償却をほとんどしていない。借り入れが30数億円もある。「補助金もこれだけ出しながら、何故そんなにあるの」ということで、やっぱり30億、40億の欠損があるというのをすぐに見極めたんでね、苦労して。皆に文句を言われたりしたけど、最終的に公金を30数億円出した。知事に就任した年のお盆に畜産開発公社から美味しい肉が届いたんだ。「何これ不思議だなぁ、知事だからかな」と思っていたら、議員やらいろんなところにステーキが届いているんだよな。私も一回はご馳走になったのは事実だけれども「これ、もらってられないよなぁ。こういうことは良くない、もう止めろ」と言って、以後は止めさせたんだよな。肉は美味しかったけど(笑)。うちには御中元・お歳暮禁止令みたいなのを出しておったからね。それから旅行に行く時の餞別だとかも禁止。皆そういうものを食糧費を使ってやっておった。悪しき慣習ですよ。ある面では組織的な犯罪ですね。公金だという概念が薄かったんだな。

■能代産廃対応の真相
 ― よく思い切って能代産廃を清算しましたね。
寺田 昭和57年ごろの産廃法というのは、環境問題について欠陥法なんですよ。その法の下で管理型の廃棄場、ゴムを張ったり、防水して、排水は浄化して出すとかそこまではやっていたが、廃棄物を埋めること自体はハチャメチャで、違法なモノまで埋めているということなんです。高台みたいな所に許可すること自体、行政の怠慢なのか、何かの政治の圧力があったのか分からないけど、まずそれを県が許可したことがおかしい。そして業者はコンプライアンスを守らずに、業者として環境に対する在り方がラフだった。放漫経営で金も使っていた、金をどこに使うんですかというと、政治とかに流れるしかないと思うんですよね。あとは贅沢三昧するとか。処分場が満杯になるとお金は入ってこなくなる。産業廃棄物場の新たな拡充を認めれば、棄てることが出来るから、またお金が入ってくる。そしてまた違法なことをやる。24時間張りついてる訳にはいかないし。そういうことでまた新たな産廃を作ろうと、許可しようとしておったんです。要件が合えば許可しなければならない。ところが法律の中に「不健全経営には許可しない」とあるので、ずっと調べて担当を呼んだ。「これは健全経営なの、この決算書で」と。そうしたら許可するサイドの担当者が頭を抱えてしまった。私は「許可しない」と。許可しないということはこの会社は倒産することが予測出来る訳だ。もう処分場が満杯で新たな収入源が無いんだから。そうなって来るとどうするのと言うと、シミュレーションを組んで、倒産した場合はすぐに対応出来るようにということで、生活環境部と建設交通部など各部が手を取り合って体制を作って、倒産となった次の日からドンとやった。そこの処理場から排水がそのまま流れれば、やがては大潟村まで行っちゃうんだよ。
 ― あそこで許可していたら、また同じことの繰り返しで、修復に40数億円かかったようですが、それでは納まらなかった訳ですか。
寺田 瀬戸内海の不法投棄で500億円だとか、青森と岩手の県境で400~500億円かかったとかね。私の方では早く手を付けたから40~50億円で済んだが、やっぱり100億円とかかかったんじゃないの。それは税金なんだよね。それで3県合同で環境税というのを取るようにして、それからは税で年間3億円ぐらいもらっているから、何とかなっている。

■情報公開にこだわった真相
 ― 何であそこまで情報公開に執着したのですか。
寺田 横手市長だった時、平成7年に全国に先駆けて情報公開条例を作ったんです。市役所の連中は、情報公開されるのを反対するんですよ。職員皆、情報が漏れると。私は言ったんです「これはあなた方の身を守るためなんですよ。あなた方が適正な仕事をしておれば、これによって助かるんだよ。要らない圧力や、要らない口利きで、あなた方が不正に巻き込まれなくて済むよ。だから情報は公開すべきだ」と。行政というのは、簡単な言い方をすると、税金で賄われているんだから、プライバシーとかを除けば、基本的には情報公開すべきなんです。今はそうなっているでしょう。あとはオン・ザ・テーブルだけだ。

■大王製紙に担保金を取り上げられた真相
 ― 大王製紙進出断念の真の理由は何だったと見ますか。
寺田 経済的進出断念ですよ。不況になって、これは仕方がないんですよ、ビジネスの社会では。1990年(平成2年)まではバブルだったし、進出すると言っていたころはまだ成長が見込まれた。水もあり、船の係留地まで用意するとのことだから、製紙会社にとっては最高の場所なんです。そして水の値段が安ければ、と。製紙会社は水を使うから。ところが、水の補助金が不適正な支出ということで裁判に負けたということなんでね。当初は大王さんも進出する気はあったんだから。人を100人だが採用したりした。簡単にいうと、バブルが崩壊して、倒産だとか何だかんだで、平成9年は私が知事になった時だけれども、経済は不況で一番ダメなころだった。ところが前の県政は用水や工場用地造成に何百億円も掛けているいる。全部で300~400億円掛かっているんですよ。それで「何とか顔を立ててくれ、進出しない場合は違約金を払ってくれ」という話になって、55億円だか預かった形だけ取った。公証人役場に行って「直ちに強制執行に服する」との供述証書を作成しておけば何の問題も起きなかった。白地手形でもよかった。そうしておれば、あの金は一発でもらえた。昔から行政というのは繕いの行政なんですよ。私の代になってからは、繕いはしない、まやかしは絶対にしていない。

■真木、長木ダム建設中止の真相
 ― 長木ダム建設中止を決断した切っ掛けは何だったのですか。
寺田 知事面談日に「長木ダムを考える市民連絡会」の代表の方が来て「現地を見てくれ」と頼まれた。「いいよ」ということで、見に行った。綺麗な渓流があったね。ダムを造るというと、環境に対する影響は間違いなく避けられないんで、環境調査をする。貴重なクマタカが生息しているということもあるんでね。簡単に言うと、どうしてここに造らなきゃならないの、これ造らなかったらどうなるんですか、ということなんです。例えば「水害を未然に防止する」と言うけれど、何ミリの雨が降ったらどこまで影響するのかと言ったら、これ(被害予測)もまやかしなんですね。鉛筆舐めて水害地域を過剰に見積もっていた。それで費用対効果で、あなた方(ダム建設推進派)の言っていることと違うんでないの、となった。今まで調査してきたんだからと言うんだけれど、そんなものは止めなさいと。ダム推進派は「選挙に影響します」なんて言うけれど、選挙なんて関係ないだろう、それって。作為的なもので造るのはダメだということなんだな。それが(県北地域では)大館市長に意地悪したんだろうという見方なんだな。別に意地悪したつもりも何も無い。税金を突っ込んで300億円とか掛ける価値が無い。3~40億円で堤防を造って(水害防止が)出来たんだ。
 ― 真木ダムは。
寺田 あの美しい渓谷を無くしたくなかった。自然派なんだな、本心は。
 ― 工事費の削減で「希代のコストカッター」とも呼ばれたようですが。
寺田 東庁舎で120億円が80億円ぐらい。国体も500億円と言われたのを300億円にした。東庁舎はデコレーションを外しただけで、ダンピングをさせた訳ではない。県庁っていうのはね、蛍光灯一本でもいちいち工作したような何十万円もする物を使う。デコレーションのついた見映えの良い物を作るのが当たり前だという感覚なんだ。税金を使っていることを分かっていない。驕りがあるわね。(任期中に)1千億円はカットした。

■政権党との闘いの真相
 ― 中央と強いパイプが無ければ地方自治はやっていけないと言われることがあります。自民党を向こうに回して12年間知事をやってきて、地方自治を損なったことはありますか。
寺田 未だに「中央とのパイプ」を言う政治家がいるが、地方が生き残るには自由な発想と、地方の成長のためにどうするか、新しい切り口・イノベーションをするには、国に縛られないことです。中央直結でないから「30人(程度)学級」や直轄事業で無料の高速道路を作るなどの発想が出来るんです。
 ― 国の予算の個所付けなどで不利益をこうむったことはありませんか。
寺田 無いね。
 ― それはなぜですか。
寺田 (予算措置を)申し込んだ時に、こちら(県)の方の理屈が通っていて合理性があれば、国は予算措置をせざるを得ない。例えば、特別養護老人ホームの待機者が全国で1万人いるとして「秋田県にだけはゼロにする」ということは出来ない。
 ― 在任中、自民党の国会議員に県の予算措置を頼んだことはありませんでしたか。
寺田 頼んだことはないけれど「これはこういう風にやりましたから」と報告したことはあります。だけど自民党の国会議員の先生方から「何も頼まないのか」と言われたことも事実です。
私は、真木ダムと長木ダムという二つのダム事業を中止しました。自民党の先生方は「なぜ止めるのか。工事費が入ればそれだけ地方が潤うだろう」と言うけれども、将来的に環境を汚染する恐れがあるし、それだけの金を掛けなくたって、河道改修等で環境保全と治水対策は出来る。だったら安い方法を選択して、税金を使わない方が良いでしょうということ。自民党の先生方は必要でないものでも何でもいいから予算を持ってきて使えば活性化すると思っている。
 ― パイプが無くても知事の仕事は出来るんですね。
寺田 やれる。よそのことは知らないが、少なくとも自分はそういうしがらみやパイプが無くても出来た。何を以て「パイプ」と言うのか分からないけれども。自民党は「中央とのパイプがある」と言いますが、要らないものが入って来るパイプなんか要らないんだ。汚水流されてもなんともならんし。

■地方分権が頓挫した真相
 ― 道州制を頓挫させたのはだれなんですか。
寺田 地方分権は小泉さんの時から引き継がれていった、安倍さんにもね。ところが政権交代となって、民主党に力が無くてやれなかった。今の政権は力はあるかも分からんけれども、利益政治だからやる気がない。これだけ借金があるのに、国会議員は金を使うこと、配分することしか考えてない。地方も要求団体になっちゃたし。財政健全化は政府の責任だと言うけれど、違うんだよ。私たちは「地方から国を変える」と権限移譲を求めた闘う知事会だったんだけど。もう一回知事をやったら「地方から国を変える」って言えるよ。
 ― 1国2制度も止まってしまった、なぜなんですか。
寺田 あれね、ある人が言ったんです「地方は金が掛かるよな」って。雪下ろし、道路の除雪、秋田だけでも何十億。だけどもそれをしなけりゃこっちに人が住んでいないよね。豪雪地帯とか離島だとか、そういう所に企業を誘致するには、法人税を半分にするとか、何か優遇措置を付けなければ行かないですよ。東京とか、名古屋とか、東北で言えば仙台とか、まあ政令都市には集中するでしょうが、あとは皆ダメになっていく。
全国一律、北海道の農業と九州の農業を同じ制度でやろうったって無理だよ。何でも「金太郎飴方式」なんだよな。日本文化だな、お上の前に気力が萎えているのか。

■子育て支援新税断念に隠された真相
 ― 子育て新税を断念した時、辞職して選挙で県民の信を問う考えはありませんでしたか。
寺田 社会が責任を持って子育てすることに対しては理解は十分にあった。ただあの当時、定率減税の廃止と医療費の増額などで県民の負担感が増しており、子育て支援に対する税を負担していただくことについては否定的な方々が7割もいたのは事実だ。内容的にも税の負担の公平性について説明し切れないところもあった。
ただ議論の最中に県議会が満場一致で子育て支援税反対の請願を採択した。それをされた以上は、門前払いで議論もさせてもらえないということになる。だったら寺田県政に対する不信任案を出してもらえる、という期待感があった。不信任案で議会を解散し、自分も辞職して一緒に選挙がやれると期待をしたけれど見通しが甘かった。ただあれから10年経つが、社会全体で子育て支援をしていくという考え方は間違っていなかった。回りの人からよく言われる「惜しかったなあ」と。


■秋田の未来

 ― 国は膨大な借金を抱え、秋田は少子高齢化が進む。どうしますか。
寺田 私が政治の社会に入った時は、国の借金は200兆円ぐらいしかなかった。1年に30兆円ぐらいずつ増えて知事になった時は500兆円、今は1000兆円を超えているでしょう。現状を維持することも不可能だ。先に見えるのは国の財政破綻。おそらく5年、10年後には間違いなく財政破綻して戦後のハイパーインフレのような混乱が来る可能性だってあり得る。ゆえにどうするかというと、100兆円を超している社会保障費についても、延命治療はしないなど、欧米並みの考え方を入れていかなければならない。2025年(平成37年)には高齢化率が3割になる。3割の中の6割が75歳以上だから、10人に2人ぐらいが後期高齢者なんですよ。インフラ整備は身の丈に合った投資だけにして、世界に通用するような人材育成をきちっとすること。やっぱり耳に痛いことを皆で話し合わなければならない時に来ている。それなのに今でも省益と既得権。それを成り立たせている口利き政治、そういう癒着構造を断ち切らないと、日本は生き残れないだろうな。そういう暗い覚悟でおります。
 ― そうなると秋田はどうしていけば良いのか。
寺田 国を頼りにするというよりも、分権して独自に走らせること。地方創生っていうのは、分権することだ。とにかく国と県、県と市町村は3割ずつぐらいはやっていることが重なっている。重複行政を解消することだ。権限を移譲して道州制に向かわなければならない。
秋田県の食料自給率は180%くらいある。何があってもおまんまは食っていけるとどっしり構えて、あとは人材育成することだ。その人方が秋田に働く場所が無ければ、県外へ行って、いい給料をもらうのも良いんじゃないの。だから人口が80万人になろうが、70万人になろうが、それはそれなりの価値観として見ていくしかない。
数でものをやる時代じゃない、内容でやる時代だ。数だったら中国やインドに全然負けてしまう。


東京都政を揺るがしている築地市場の豊洲移転問題で、決定当時の都知事だった石原慎太郎氏が3月3日日本記者クラブで記者会見した。「果たし合いに行く侍の気持ち」と勇ましかったが、「専門家でない」「部下にまかせた」と肝心なところで歯切れが悪く、ついには「行政全体の責任」と語り、蜜月関係にあった都議会にも責任があると主張した。これには市場関係者から「無責任だ」との批判の声が上がり、ジャーナリストの斎藤貴男さんは「『僕のせいじゃない、みんなのせいだ』と話す姿は滑稽で、見るに耐えなかった」(毎日新聞3月4日朝刊)と酷評していた。
首長と議会の両者が摩擦なく「まあ、まあ」と馴れ合った結果がこれだった。地方自治の最大の特色は二元代表制である。両者が地域の将来を真剣に考え激論を交わし、道筋をつけていくのが正常な姿ではないか。
寺田県政の12年間は最初の副知事選任不同意に始まり、地方振興局3局再編否決に至るまで、両者は終始対極にあった。しかし国際教養大学の創設や、こども支援総合エリア「かがやきの丘」の新設、高速道路の無料化、全国初の30人学級の実現と小・中学生の学力日本一など「県民ファースト」の政策が次々に実現していった。しがらみがないからこそ寺田氏はこれらの政策を大胆に進めることが出来た。

※次回は4月中旬の更新予定です。

文科省の「天下り」問題を他山の石として「食糧費不正事件」の再発なきを願う~『秋田よ変われ』より・その5~

今年の1月、文部科学省が組織ぐるみで違法な「天下り」あっせんを続けていたことが明るみとなった。10年ほど前に、公務員の「天下り」は官民の癒着の温床になると批判されたことで、平成20年末に国家公務員法が改正され、現役の職員によるあっせんなどが禁止されていた。ところが文部科学省は、翌年の平成21年から人事課OBを窓口に現職の事務次官らが関与して「省ぐるみ」で天下りをあっせんしていた。同省の中間発表(2月21日)によると新たに17件の「天下り」があったという。根絶したはずの「天下り」が堂々とまかり通っていたことに驚くとともに、かつて秋田県を揺るがしたあの大事件が頭をよぎった。平成7年に始まった、秋田県庁の食糧費不適正支出問題である。渦中にいた県職員の方々には思い出したくない悪夢だろうが、不正はモグラ叩きのように、隠しても隠しても次から次と噴出し、最後は究明に窮した当時の知事が責任を取って辞任するに至った。

知事選で勝利した寺田氏に食糧費不正問題の解明が託された。県職員の1割を投入し約1年かけて調査した結果、平成6、7、8年の3ヶ年で食糧費のほか、カラ雇用、カラ出張など、不適正執行額は総額43億6千万円に上った。これに延滞損害金を加えた約50億円を県職員は7年かけて平成17年に全額返済した。全く身に覚えのない職員も含めて身銭を切った。寺田知事はウラ金作りをしていた庁内の裏組織を解体、二度とこのような事がないように、出金システムも変えた。文部科学省の「天下り」のようなことはないと信じたいが、あれから20年余が過ぎた。あの当時どのようなことが白昼堂々と行われていたか、次世代に伝えておくことも大事なことと思う。


職員500人を投入
 副知事不在の中、加沢総務部長がキャップの食糧費等調査委員会は動き出した。各課から2~3人が調査担当員に任命され、部局ごとに調査班が設けられ、77課局・室と214の地方機関が一斉に調査を開始した。調査に係わる人員は500人に上り、県職員の1割が投入された。調査は平成8年度分から手掛けられ、順次年度を遡ることとなった。調査員は各部署に保管されていた31万9630件の支払い命令の伝票一枚一枚について職員の記憶と照合して調査票に記入していく気の遠くなるような作業に取り組んだ。
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裏金発見
 県は平成8年度公費不適正支出調査の中間報告を8月25日に発表した。不正の総額は2815万円。食糧費と旅費はゼロだったが、新たに加えた調査費目で不適正支出が見つかった。賃金799万円、報償費47万円、一般需用費1796万円、役務費104万円、使用料及び賃借料67万円。
改善策が施行されたにもかかわらず、不適正支出が懲りることなく続いていたのも驚きだったが、調査科目に入っていなかった多額の裏金が見つかったのは衝撃だった。
総額8925万円のほとんどが現金で保管されていた。9月3日までに県立農業短大から277万円の駆け込みの届け出があり、裏金は9200万円にまで膨れ上がった。捻出方法や使途、保管管理、各課間での融通などの経緯は、平成7年度、6年度の調査と密接に関連していることから、それらを待って明らかにしていくことになった。
寺田は今回の裏金を「保有現金」と表現した。即現金化出来る捻出方法は、カラ賃金かカラ出張だった。カラ賃金とは「日々雇用制度」といわれる14日以内の臨時雇用は現場の判断で支出出来ることを悪用した。裏金のもう一つは架空の備品やお土産を買ったことにし、代金を業者に預けておく方法があり、これもやがて発覚する。平成8年度の調査結果を公表した8月25日、寺田は、県正庁に集まった調査担当者約480人に対して「これから始まる平成7年度、6年度の調査は産みの苦しみになるだろうが、これが県民から信頼回復を得る最後のチャンスであり、中途半端な調査は問題を引きずるだけ、健康管理に留意して調査に全力を上げてほしい」と激励した。

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平成7年度の不正は11億円 主役はカラ雇用
 10月27日、県は平成7年度の食糧費等不適正支出調査の中間報告を発表した。調査の対象は平成8年度分の調査と同じく知事部局など10部局4委員会78課局室、213地方機関を対象に行った。寺田は「県民の信頼回復する上で最後の機会であると職員に再三申し上げてきた。決して調査の信憑性を疑われることがないように、注意を喚起しながら進めてきた」と調査の精度に自信を見せた。
不適正支出額は総額11億341万円に急増した。調べた8費目のうち、食糧費は9694万円、「旅費」3億52万円で、昨年の佐々木前知事の調査時より両費目で2億2877万円も増えた。7年度は食糧費問題が発覚、同年11月からは是正措置もとられていただけに、腐敗の根の深さを思い知らされた。
食糧費、旅費以外の費目全てに不適正支出があった。不正の主役は食糧費から賃金に代わった。全体の半分近い5億4028万円がいわゆる「カラ雇用」だった。旅費を加えると8億4000万円が架空支出で現金化され、飲み食いなどに流用されていた。
各部局ごとの不適正支出額は、土木部がトップで4億5000万円、次いで農政部が3億2000万円とずば抜けて高かった。両部合わせると全体の7割を占め、不適正支出の構図の輪郭が浮かんできた。「知事部局の中枢が仕切り、現場が実行する」と寺田が見立てた通りの展開になってきた。引き続き進められている平成6年度の調査では更に額が膨らむことは確実で、前年に約10億円の返還を余儀なくされた幹部職員は再びのしかかって来る「返還の重荷」に不安を募らせた。

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平成6年度は31億円
 12月12日の記者会見で、想像を絶する巨額の不正金を公表した寺田は強いショックを隠し切れなかった。
平成6年度食糧費等不適正支出は、実に総額31億3040万円と平成7年度の3倍近くに跳ね上がった。平成6年度に県が執行した支出命令額は271億4600万円、その1割以上が不正に使われていた。
不適正支出額で最も多かったのは賃金の10億9533万円、次は旅費8億4299万円。「カラ賃金」や「カラ出張」によって引き出された保有金、いわゆる「裏金」は19億3833万円で不摘正支出の62%を占めた。寺田は「想像を超えた金額」と絶句した。
食糧費は6億2637万円、一般需用費3億2290万円、使用料及び賃借料の1億2994万円と、億の台に乗った。
「デタラメ度」の指標となる「支出命令額に占める割合」を見ると、食糧費は53.5%と半分が不適正支出、賃金は34.5%と3分の1が「カラ雇用」、旅費は20.3%が「カラ出張」だった。使途の段然のトップは「職員同士等の会食他」だった。「食糧費」の不適正支出だけでは足りず、カラ雇用などで生み出した裏金を使って、不正総額のほぼ半分、15億1431万円を飲み食いに使っていた。「裏金」は、今回の調査で一般需用費、役務費などからも一部が現金化されていることも分かり、最終報告で公表されることになった。
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議会も3年間に3千万円の飲食他
 寺田は使途を巡って初めて政治絡みに言及した。「悪しき慣習とはいえ、一番の責任は執行部にある。しかし、議会の人方も飲食を共にしている。これは職員同士等の会食の、『等』(の一字)に含まれている。チェック出来なかった議会に対しても残念だったと思う」と、一緒に飲めば当然気づいて当たり前であるはずの議会の責任にも触れた。
「まるっきり職員同士の飲み食いで15億ということではなく、いろんな方々との懇談があったと理解して欲しい」と言う意味を込めての「等」であった。12月定例県議会の総務企画委員会で不適正支出の中に政治家のパーティー券購入や、集会などへの出席費用や様々な書籍の購入など政治絡みの支出もあったと県側は認めている。議員との懇談費用は調査した3年間で3000万円だったと平成10年2月定例県議会で答弁している。
6月から始まった調査は6年度分の調査でひと区切りついた。6,7,8年度を合わせた不適正支出額は中間報告を合算すると42億5000万円に上ったが、最終結果の報告は調査漏れが無いよう再点検し、1カ月かけて市民団体や県民から情報を集めた後とした。
年明けの1月末の最終報告に向け、返還問題が寺田の肩に重くのしかかってきた。返還する額は全額か、一部か、その基準は、返還するのは当事者だけか、それとも県職員全員か。最後に決断するのは知事である寺田である。

土木部と農政部で不正の64%
 2月20日、食糧費等の執行に係わる調査の最終報告が発表された。調査対象の知事部局、企業局、人事と地方労働の2委員会事務局、監査委員事務局及び教育庁と、独自に調査していた議会事務局を含めて発表した。
調査の結果「他の目的に充当された額」42億9359万円に、グレーゾーンとして区分が未定だったタクシー使用料7259万円が「支出実態を確認できなかった額」として不適正支出に加えられ「不適正な執行額」と認定された総額は43億6619万円と驚くほど巨大な金額になった。
年度別の「他の目的に充当された額」は平成6年度31億5380万円、7年度11億1105万円、8年度2873万円。費目別に見ると賃金がトップで全体の38.3%の16億4379万円、次いで旅費が26.8%、11億5086万円、食糧費は17.1%,7億3379万円で、この3費目で全体の82.2%を占めた。このほか一般需用費4億5666万円、使用料及び賃借料1億5878万円、役務費8729万円、報償費5871万円、備品購入費368万円と全ての費目で不正な支出が認められた。
不正支出額が支出命令額に占める割合は食糧費45.2%、賃金20.5%、旅費11.4%と不正が蔓延していたことが改めて明らかにされた。
部局別では、土木部が16億7019万円、農政部10億8285万円と群を抜いて多く、全体の64.1%を占めた。両部で作られた不正な資金が県庁内を循環していた。
不正金の使途は「職員同士等の会食他」がダントツの20億5223万円で全体の47.8%とほぼ半分を占めた。次いで「事務費等への充当」8億7712万円、「調査費・工事費等への充当」4億3565万円、「慶弔費等への充当」4億2122万円と続き、この4費目で88.2%になった。
職員同士の慰労会、送別会、歓迎会、退職者への記念品や餞別、海外旅行への餞別、議会や市町村関係者、商工、農業、金融、報道関係などとの懇談会と称する飲み会、親睦会への助成、結婚式のご祝儀、お葬式の香典、残業時の夜食代や会議の負担金、地域の祭りへのご祝儀もあったりと、ありとあらゆることに使われていた。
現金を包んだお中元、お歳暮もあったというが、これらは職員のメモと記憶を元にしたもので、贈られたとされる相手から一つ一つ聞き取るなどの裏付け調査が出来なかったために確証は取れなかった。内部調査の限界だった。

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裏金は28億円余
 裏金の全貌も明らかになった。平成6~8年度の3年間に捻出された裏金の額は28億2788万円、支出が27億5093万円、6年度当初の保有金と合わせて9199万円が現金で40課所に分散して保有されていた。この他に「カラ購入」などで業者に預けていた裏金4076万円も見つかった。
最終報告では、食糧費等適正執行考査委員会に提示した5項目の判断基準に照らし、集計して積み上げられた「返還を要する額」28億9921万円が提示された。問題は残りの14億6600万円の取り扱いである。
今回の調査を踏まえ改善策が出された。年度末に余った予算を無理やり消化する「決算調整」の根絶、地域とのつながりに必要な経費は新たに「地域交流費」を設け予算計上するなどが決まった。精神論だけではない実務型が取られ、具体的には、賃金は雇用者本人の口座に払うことや、出張は用務などを詳細に記載させたうえで、旅行代金は職員本人への口座に払うこと、公文書の郵送には郵便局の料金後納制度を活用することなど民間会社ばりのきめ細やかな改善であった。

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全額返還を決断
 寺田は「3月27日の部局長会議で意見を集約し、30日に、6月の調査開始の時の出発式みたいに、あの場所に集まってもらって、締めくくりにしようと考えている。27日がヤマ場」と明かした。食糧費問題は最後の大詰めを迎える。
27日の部局長会も結論は出なかった。寺田は「行政は税で賄われている。信頼回復には全額返還しかない。しかし、職員にはこの問題に携わっていない人もたくさんいる。被害者だという意見もある。それも真っ当な意見だと思う。そういう点で意見集約となれば、私が一任を取り付けるしかない」と、自らが責任を取ることを明確にした。 寺田は、土曜日から月曜日の朝まで知事公舎にこもって、思索を重ね、ついに全額返還を決断した。30日朝の部局長会はすぐ調査委員会に切り替わった。寺田は返還額は一部分とも全額ともどちらとも明かさず「俺に任してくれるか」とだけ言った。
11時15分、寺田は県正庁に集まった職員約400人を前に「この問題にピリオドを打つには全額返還の道を選択せざるをえないとの結論にいたった」と切り出した。庁内放送を通じて各地方事務所にも流した。
寺田が朝方まで筆を入れた2800文字の説明文には、結論に至るまでの曲折がしみ込んでいた。
部分返還という道もあった。しかし、それで果して職員が誇りと自信をもって職務に精励出来るか。免責に対する県民の不満。訴訟の場面で職員が苦しい立場に立たされないか。そのことは問題解決をエンドレスにしないか。全額返還の道を選べば職員の生活に重く負担がのしかかる。行きつ戻りつの思考の末、寺田は「納税者である県民と奉仕する立場の職員が意識を一体化させ、文書の書き換えなどを反省しピリオドを打つべき」との結論に達したと説明した。
返還額は膨大でハードルは高かった。職員の不安を緩和するため、「広く、薄く、長く」を返済の基本に置き、全職員で返済し、職員の生活に支障が生じない返還方法を示した。最後に「全額を返還する事が県民の信頼回復の第一歩と確信し、三年間に費やしたエネルギーを県民のために捧げ二度とこのようなことを生じさせないことを誓う」と結んだ。
職員への説明の後の記者会見で「全額返還を決断した今の気持ちは」と問われて「重苦しい感じだ。しかしこのことが解決出来れば、晴れ間を見ることが出来る。希望を持って、頑張って行くにも3月31日までけりをつけたかった」と語った。

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遅延損害金を含めた約50億円の返済
 4月に入り職員返還会が作られ、返還対象となった職員の98%が加入し、職階に応じた10年間リレー方式で返還することになった。
年間の返還額は部長級の42万円から主事・技師級の2万4千円まで11区分に分けられ、給料とボーナスから天引きすることにした。返還額は不適正執行額43億6623万円から、既に前回返還済みの分と回収した裏金など10億9049万円を差し引いた32億7573万円に遅延損害金5億4364万円を加えた38億1938万円となった。

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県生連との和解

 平成12年2月4日「県生活と健康を守る会連合会」(鈴木正和会長・県生連)が佐々木前知事らを相手取り、食糧費などの公金の返還を求めた住民訴訟4件と虚偽文書の公開で受けた損害賠償請求訴訟1件の合わせて5件の訴訟の和解が秋田地裁で成立した。(中略)
県生連が平成7年から5年間に提訴した訴訟は約50件に上る。このうち佐々木前知事時代に絡む訴訟は上告2件と県議会の公文書開示請求訴訟だけを残して終結した。鈴木会長は記者会見で「5年間は辛いことが多かったが、途中で止めなくてよかった。県は批判する団体には冷淡だが、それだけに県が県生連に一定の評価をした意味は大きい」と語っている。寺田知事に対しては「食糧費問題全体に関しては積極的な役割を果たした」と評価した。
寺田は臨時記者会見を開き、県生連に対して「県政の正常化に大きな役割を果たしてくれた。大変粘り強く、努力なさったそのエネルギーには敬服している」謝意を示した。知事に就任して食糧費問題解決に3年を費やした。

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返済終了は平成17年

 返還金は職員互助会が金融機関から借り入れ、出納閉鎖日の平成10年5月29日、一括して立て替え払いした。それから7年経った平成17年6月30日のボーナス支給で返済が終了した。退職時に3年分を一括して返済するなどの職員の協力もあって、返済期間10年の予定が3年早く完済し、県庁の「負の遺産」は漸く清算された。
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食糧費問題は全国市民オンブズマン連絡会議の調査によると、秋田県以外にも25都道府県で発覚したが、知事が辞職したのは秋田県だけだった。秋田県政史上例を見ない一大不祥事であり、県民の信頼を著しく失ったのも事実で、信頼回復に向けて寺田知事は渾身の力を込めて県政に取り組まねばならなかった。
寺田知事はその後、食糧費などの不適正支出で県職員が返還した資金を人材育成に投下した。第一弾が平成11年度に実施した「ふるさと子どもドリーム支援事業」だった。県内全ての小・中学校と特殊教育学校の477校に生徒数に関係なく、1校につき100万円を助成、子供たちの夢の実現に当ててもらった。子供達は計画作りに夢中になり、父兄を巻き込み「一度空から学校を見たかった」とヘリコプターをチャーターしたり、熱気球に乗ったり、オリジナルのミュージカルを上演したり、中には衰退していく故郷の祭りを盛んにするためにお金を使った学校もあった。 この事業は分断されていた学校と地域のつながりを生み出し、保護者だけでなく地域の住民が学校と関わるきっかけを作り、先生と子供たちの心に変化をもたらした。
職員の返還金はこのほかに、少人数学級を進めるための非常勤講師採用の資金にもなった。このことは地方の小規模学校の学力向上の刺激となり「学びのそこじから」につながった。45年前は全国で40番目前後だった秋田県が、平成19年に再開された全国学力テストでは、小学6年生は国語、算数の「知識」「活用」の4科目とも全国1位、中学3年生は国語の「活用」が1位、残りも2位と3位と学力日本一となっていた。
返還にかけた職員の苦労は「生きたお金」となって報われた、と言えよう。

※次回は3月14日に公開いたします。

秋田になぜ国際教養大学ができたのか~『秋田よ変われ』より~その4・下

寺田知事の「糸一本つないで」との願いは、自民党県議によって国際系大学設立の設置予算全額が削除され、開学の道は閉ざされた。
計画は消滅したかに見えたが、平成13年4月の2期目の知事選に出馬した寺田知事は対立候補に倍以上の大差をつけて圧勝。県民は県議会とは反対に寺田知事の国際系大学設置を信任した。
知事選からわずか8日後、県議会が激変。自民党会派が分裂し自民党は県議会の過半数を失った。文化人や県内の経済人から国際系大学開学の要望が広がり、寺田知事は国際系大学設置に向け再挑戦する。

その過程を、第3章 更なる挑戦と改革(187ページ~212ページ)を中心に、国際系大学設立に関する部分から紹介したい。前回に引き続き、長い引用で恐縮だがお付き合いいただきたい。


早期実現の請願書採択
 満を持して、寺田は6月定例県議会に議会の訪米調査費1,318万円と知事のミネソタ州立大学機構訪問事業予算622万円を追加提案した。先に新生会の同意を取り付けていたこともあって自民党も賛成して訪米調査費は可決。同委員会の県議7人が8月4日から12日までミネソタ州を訪問し、ミネソタ州立大学機構のメトロポリタン大学等を視察した。
 「高等教育に関する特別委員会」の北林康司委員長は12月7日開催の12月定例県議会本会議で「当委員会としては、県内子弟の未来に希望と展望が持てるような学びの場を確保したいとの思いは共通であり、その必要性は認める」と報告した。設置形態については意見の集約に至らなかったとして、県立大の学部、県立の単科大学、公設民営方式の3案を併記したが、事実上の国際系大学設置に向けたゴーサインだった。県内の経済人から前年の2月定例県議会に出されていた「国際系大学(学部)構想の早期実現」の請願が採択された。

創設準備予算可決
 寺田は年明けの平成14年1月7日に臨時県議会を召集した。知事説明に立った寺田は、万感の思いを込めて「このたびの臨時会においては、国際系大学の創設に関連する予算のご審議をお願いするものであります」と切り出し「経済社会のグローバル化が急速に進展、時代の先行きに不透明感をぬぐい切れない中にあって、秋田の未来を切り開いていくためには国際的視野を持った人づくりが急務との思いを強くした折、実践力を重視した教育方針のもとで、常に目的意識を持って勉学に打ち込むミネソタ州立大学秋田校の学生の真摯な姿に出会った」と構想の原点を述べた。続いて「ミネソタ州立大学機構など多くの方々の協力が見込める今が、本県の発展を図るまたとない機会であり、国際系大学の創設に全力を尽くす」と決意を述べ、大学の設置形態は「米国式教育システムや教員の任期制など大学の特色を最大限に活かし、独立行政法人への移行など、最も優先すべき課題に対応出来る単科大学としてスタートするのが現実的だ」と、単科大学での開校を明示した。
 補正予算案には平成16年4月の開学に向け、創設準備委員会の設置に関わる費用728万円を計上した。構想の壮大さに比べるとささやかだった。補正予算案は9日の本会議で記名投票によって採決が行われ、賛成25人、反対21人で可決された。反対は自民党と共産党だった。自民党は「少子高齢化により学生の確保が困難」と入り口に固執した。

国際系大学創設準備委員会が設立
 寺田は遂に念願の渡米を果たす。2月20日アメリカに渡り、ミネソタ州立大学機構のジェームズ・H・マコーミック総長との間で「国際教育の協力に関する覚書」に調印した。これをもとに、平成14年度当初予算案に、国際系大学の教員募集など大学設置を進めるための事業費8008万円を計上し2月定例県議会に提案した。自民党は議長を除く20人全員が採決時に退席する異例の手段をとって抵抗したが、賛成多数で原案通り可決した。平成11年9月から続いた国際系大学創設を巡る寺田と自民党との2年半に及ぶ戦いに決着がついた瞬間だった。
 寺田が最重要視していた国際系大学創設準備委員会の委員が決まり、議会が終了してわずか4日後の3月29日、東京平河町の都道府県会館で初会合が開かれた。委員長には1年前に国際系大学検討委員会の座長を務め、国際社会に通用する実践力重視の基本構想をまとめた中嶋嶺雄・アジア太平洋大学交流機構国際事務総長(前東京外語大学長)が就任した。副委員長はグレゴリー・クラーク・多摩大名誉学長が就任したほか、委員には、昨年の検討委員会で日本の大学の現状に危機感を持ち、改革意欲に溢れた熱い思いを語った明石康・元国連事務次長、野田一夫・前宮城大学長ら15人が就任した。寺田は「これまでの日本には無かった大学を文部省と闘ってでも創ってほしい」と要望した。

授業は全て英語、1年間の留学義務
 国際系大学創設準備委員会は集中的に会議を開催、平成15年4月まで8回の会合を重ね、大学設置認可申請に必要な重要事項を決定していった。中嶋委員長らがこだわったのは、いかにして「21世紀の国際社会で活躍出来る人材の育成」を図るかであり、そのための「日本には無い、グローバル・スタンダードの斬新な大学」の創設であった。しかし、実はこの道を阻んでいるのは大学自身であった。東京外語大学長として大学運営に関わった中嶋委員長は「宿痾とも言うべき様々な問題を痛感した」と自著に記している。中でも「①世界で活躍できる人材を育成できない②大学改革が遅々として進まない---の二つの問題は極めて深刻だった」(「なぜ、国際教養大学で人材は育つのか」中嶋嶺雄、詳伝社黄金文庫)。
 その経験から、新設する国際系大学では「世界に伍してグローバル化社会を生きていくには、役立たずの旧態依然の文法至上主義の英語から脱却し、英語教育の発想と方法を根本から変えていく」ことを第一に置いた。もう一つは平成3年の大学設置基準の大綱化によって、空洞化してしまった教養教育の再生であった。文部省の方針に反し、新大学では幅広い教養教育を徹底して行うことを重点に掲げた。この結果、新設の国際系大学では、授業は全て英語、1年間の留学義務など、日本の大学には無い独自の教育プログラムが出来上がった。
 人事を含めた大学運営も新機軸が打ち出された。国公立大学の改革を阻む最大の要因は教育公務員特例法(教特法)に守られた教授会自治と言われてきた。教授会を取り巻く様々な既得権が改革の前に立ち塞がった。教員の採用、承認は教授会の専決事項であり、学長といえども手を出せなかった。教員の身分は定年まで保証されるが、外国人は学長はもちろん、副学長、学部長にはなれなかった。

地方独立行政法人法が公布
 ところが世の中は何が幸いするか分からない。県議会自民党会派の反対で開学が1年延びたお蔭で、教特法とは無縁の大学が実現出来る地方独立行政法人法が国会のタイムテーブルに乗り、平成15年7月に公布され、開学予定日の同16年4月1日には施行される見通しとなった。「戦後一番の悪法」(前掲書)と中嶋委員長が指弾した教特法の呪縛から解放される公立大学法人化によって、全く新たな大学運営の道が開けることになる。まさに絶妙のタイミングだった。大学の自主・自立の確保を目指していた創設委員会はもちろん公立大学法人化を選んだ。
 日本の国公立大学の教職員は終身雇用制だが、国際系大学は3年任期の年俸制とした。大学の組織運営は学長が理事長を兼務することにより強力なリーダーシップを発揮する。大学全体の運営方針は経営会議に一任、教学の方針は教育研究会議で決定することで、日本流の教授会自治から脱却、世界標準の大学運営が実現した。

学長に中嶋嶺雄、大学名は国際教養大学
 寺田は平成14年9月24日の記者会見で、20日に秋田県東京事務所で中嶋委員長に学長就任を正式に要請したことを明かし「中嶋委員長は、これまでの日本には無い全国から注目されるユニークな大学を創りたいと、強い意欲を示されまして、就任して頂くことになりました」と発表した。
 学長予定者に決まった中嶋委員長は大学名称問題を振り出しに戻した。一度は「東アジア大学」に傾きかけたが「オーストラリアで開かれたアジア太平洋大学交流機構の会議に出席した際、外国人の意見を聴いて回ったところ『中国って感じだね』の声に、リストから消し、開学の理念を込めた『国際教養大学』とし、英語名は発音上も美しいAkitaを用いて、秋田県から世界に発信するうえでもっともわかりやすい名称に決めた」(前掲書)と、中嶋委員長は明かしている。英語名をAkita International University(略称AIU)とした国際教養大学の名称は、創設準備委員会の同意を得た後、11月4日、県が正式に発表した。

自民退席の中、設置推進事業費可決
 国際教養大学の本格的な設置推進事業費15億2,448万円が3月7日の2月定例県議会で可決された。自民党は昨年9月から連続4回、全額削除の減額修正案を提出して抵抗したが、あえなく否決され、本会議では退席した。
 文部科学省への大学設置認可申請に残された課題は専任教員の採用だった。任期制の枠が掛かっていたが、世界的に知られている学会の機関紙などを通じ、世界から公募したところ、400人を超す応募があった。

予想以上の志願者と入学式
 11月27日、文部科学省から国際教養大学の設置が正式に認可された。一抹の不安を抱えていた学生募集も、蓋を開けてみると予想を上回る高い競争率となった。東京の一流大学の合格を捨てて入学するなど、入学辞退者が予想以上に少なく、定員100名に対し暫定入学者14名を含めた148名が入学することになった。
 4月1日、地方独立行政法人法が施行され、国際教養大学は公立大学法人の第1号となり、中嶋委員長が寺田から理事長の辞令を受けた。法律により「理事長が学長を務める」と規定されており、晴れて中嶋学長が誕生した。
 8日、同大から歩いて5分の迎賓館、プラザクリプトンで入学式が行われた。秋田県内の合格者は25名だった。中嶋学長の式辞は英語で行われ、開学の理念を語った後、新渡戸稲造の「武士道」を在学中の必読書として推薦した。新入生代表も流暢な英語で喜びと決意を語るなど、異色の景色となった。
 寺田は、大学のインフラ整備は「出発点は辛抱しよう。実績によって積み重ねていこうと施設から何から含めて11億円ぐらいで出発したから、足りない部分はある。キャンパスは狭いが質素に出発するのも悪いことではないと思う」と語り、将来は「1,000人ぐらいになる。今の施設では400~500人のキャパシティ。土地はあるから追々でいいでしょう。成長するということは物凄く良いこと」と夢を膨らませた。保護者が危惧した4年後の就職については「実績を重ね、留学まで義務づけられた能力ある人間は、確実に就職は出来る。大企業から含め相当数関心を持っている。私は懸念していない」と断言している。6年の歳月を掛け、国際教養大学はようやく船出した。その先には想定を超えた高い評価が待っていた。

秋田杉を使ったコロシアム風の図書館完成
 寺田は平成18年2月の定例県議会に「志願者のレベルも上がっている。大学が更に飛躍を遂げていくため、必要な施設整備については、学生からの要望の強い学生寮、研究や勉学に不可欠な図書館は先行して着手する」と表明。学生宿舎と図書館の基本設計・実施設計費6,400万円を18年度当初予算案に計上した。施設整備事業は53億円から42億円に縮減した。
 鉄筋コンクリート5階建の計画だった学生寮と講義・研究棟は木造建築に、同4階建の図書館は木造・鉄筋コンクリート2階建に変更した。事業費は学生宿舎が12億円から8億円に、講義・研究棟が11億円から7億円に、図書館が13億円から11億円に減少した。
 木造化は大成功だった。図書館は平成20年3月に完成した。環境デザインの第一人者である仙田満・東京工業大学名誉教授らの設計による6本の秋田杉の無垢材が傘を広げたような半円のコロシアム風のデザインで、天井の梁には秋田杉がふんだんに使われ、半径22mの傘の下には書籍棚と読書机が階段状につながっている。


国際教養大学は平成20年3月、初の卒業生を送り出した。卒業したのは一期生150人のうち64人だけ、「力をつけた学生だけを卒業させる」という中嶋学長の厳しい教育方針が貫かれた結果だった。しかし残りの学生が落ちこぼれたわけではない。留学先の大学は9月入学とあって、3月卒の日本とのズレが就職試験の機会を奪うことになり、就活のための留年も多かった。就職先は日本の名だたる企業で就職率は100%。開学早々にして「就職に強い大学」の上位にのぼった。
開学にあたり中嶋学長自ら、県内の高校はもちろん首都圏の予備校まで学生募集に出向いて呼びかけただけあって、全国的な注目を集め、開学2年目には東大並みの難関校にランクされた。
海外からの留学生との同室の寮生活、徹底した英語力強化、留学の義務化など、日本で初めてのことだらけの大学とあって優秀な学生が集まった。学内の図書館などは24時間解放され、学習環境に不自由することはなかった。国際教養大は、寺田知事が立ち上げ、中嶋学長が魂をつぎ込んだ、グローバル時代の先駆けであった。

中嶋学長は平成25年2月、現職のままご逝去された。大学葬での寺田氏の弔辞(←クリックするとご覧になれます ※別ウィンドウが開きます)は二人の強い絆を偲ばせるものだった

 

※次回は2月28日に公開いたします。

秋田になぜ国際教養大学ができたのか~『秋田よ変われ』より~その4・上

今年のセンター試験も悪天候に見舞われた。受験生にとって過酷な2日間だったことだろうが、乗り切らなければならない試練の場だ。受験生の中には国際教養大学(AIU)を目指している方もいただろう。華やかな都会ではなく、時には「クマ出没警報」も出る秋田の森の中、開学してまだ12年足らずの若い大学だが、授業は全て英語で行われ1年間の留学が義務づけられる点が受験生の魅力となり、開学当初から東大並みの難関校となった。

「大学ランキング2017」(朝日新聞出版)によると全国の国公私立大学746校の学長(総長)が注目する大学では京都大学などに次いで3位、東大の上だった。
今でこそ「秋田の奇跡」と言われるAIUだが、開学までの道のりは厳しかった。

グローバル社会を見据えた人材育成の大学を目指したのだが、県議会、特に自民党議員には当初全く理解されなかった。理解しようともせず、数を頼みに強硬に反対した。予算案は否決され計画は消滅寸前だった。それでも今現実にAIUが存在しているのは、諦めずに議論を重ね、理解の輪を広げていった結果だった。

政治とはエネルギーのいるものだとつくづく思い知らされた国際教養大学の開学までの軌跡から、政治家の手腕とは何かを検証してみたい。

本文中の154ページ~178ページ
 第2章 新たなチャレンジ
  4.国際教養大への助走
  5.国際系大学否決される
からまとめたとは言え、かなり長い引用になるがお付き合いいただきたい。


ミネソタ州立大秋田校
 国際教養大学創設の原点はミネソタ州立大学秋田校にあった。

 昭和61年、キャンプデービットで当時の中曾根康弘首相とレーガン大統領との日米首脳会談が開かれ、将来を担う青少年がお互いに異文化を学び、相互理解を深めるにはアメリカの大学の日本校設立が重要ということで合意し、全国に呼びかけた結果、過疎に悩む自治体が、短期間に格安で大学が出来ると飛びつき、たちまち40を超す米大学日本校が産声を上げた。ミネソタ州立大秋田校もそのひとつで、昭和56年に町に秋田空港が開港した雄和町が、秋田の空の玄関口として、国際社会に対応した人材育成をと誘致に動き、平成2年5月開校した。

 秋田校は「日本に居ながらにして米国に留学出来る」ということで人気を呼び、初年度の入学生は定員の250人を上回る259人と上々の船出だったが、内実は他の日本校と同じく、開学当初から日本の大学との間に大きなハンデキャップを背負っていた。文部省の認定する大学ではなく、専修学校としてしか認められなかった。日本の大学卒業資格が取れないハンデから開学の翌年からは入学者は減り、きつい授業に耐えられず中退者が続出した。授業料が学校の収入の要であり、学生の減少は経営危機を招いた。

 寺田は就任後間もなく秋田校の財政難を知り、じっくりと検討を続けていた。平成10年4月学術振興課を設置し専従職員を置いて、秋田校をあらゆる面から研究させた。寺田も週末の土日を使って一人で車を運転し、昼となく夜も何度と秋田校に足を運び、熱心に勉強する学生の姿を見てきた。「秋田校は国際化の時代にふさわしい人材を育てるため、実践的な英語の教授法など特色ある教育活動を続けている。国際交流への貢献を含め、秋田県にとって貴重な存在だ」と確信した。

 寺田が「ミネソタに大いに関心を持っている」と語ってから1年が経ち、平成12年度の国の予算概算要求の時期が来て、6月28日、秋田県の施策・予算要望の記者会見が行われた。記者クラブが用意した質問の4点目にミネソタ州立大学秋田校の方向付けがあった。「あらゆる角度から検討している」と前置きして「県が支援を断念したら、将来どの様な問題が起きるか」「文部省の認可大学になれるか」「教育陣の問題、アメリカのカリキュラム、日本のカリキュラム、それからライセンスがクロスしてやれるのか」「ミネソタ州立大学機構はどのように考えているのか」など検討課題を挙げ「9月議会にはビジョンを出したい」と、初めて道筋を示した。

可能性調査費260万円
 事務レベルでの詰めの作業が盛んに進められ、「政党懇談会の後の記者会見で深く喋らせていただく」と寺田が約束した9月3日、国際系大学(学部)の基本構想を発表した。
 「国際系大学(学部)で世界の東西を結ぶ交流拠点の形成」と題された構想の実現のため、9月補正予算に国際系大学(学部)可能性調査事業として268万円が計上された。構想された大学(学部)は秋田校とは全くの別人格で、日本では初めてという日米両大学の卒業資格取得の可能性を求めた。また国際社会に通用する実践力重視の教育、ミネソタ州立大学との単位互換、国際ビジネスマンの養成などが盛り込まれた。
 文部省の認可が得られるか、NCA(米北部中央認定協会)の基準に合致するかなど、ハードルは極めて高かった。設置主体が国立や県立になると外国人は役職に就けない公務員特例法などの障害もあることも強調した。それを承知の上で「たとえ二百何十万円と言えども、秋田県の可能性を探る価値あるお金だと思う。時間をかけてもプラスにならないしできるだけ早く結論を出したい」と意欲を強調した。
 9月定例県議会の知事説明で「本県が21世紀に大きな飛躍を遂げていくためには、ビジネスや文化面などで更なる国際化の推進、とりわけ国際社会で十分活躍出来る人材を育成することが重要であり、新たな国際系大学(学部)の創設を検討する必要がある。ミネソタ州立大学との間に培ってきた交流を基盤とし、特色ある大学教育を追求していくことが最も望ましい方策であると考えている」と、全く別の新しい大学を創設すると表明した。
 これに対し野党自民党は「これは結局は秋田校の救済だ」「説明を聞いてもよく分からない。不明な点が多い」と一斉に反発。9月議会は121億円の補正予算の中のわずか268万円の国際系大学(学部)の調査事業に議論が集中した。事務方の答弁が微妙に振れることから審議はたびたび中断。最終的には「ミネソタとの連携は不可欠」とした答弁を「ミネソタは選択肢の一つ」と寺田が本会議で発言することで、事実上の答弁の修正を得たとして、自民党はこの調査費を認めた。寺田にとって、「不可欠」も「選択肢の一つ」も、意味するところは全く同じだった。パートナーはミネソタ州立大学機構しかいなかった。

ミネソタ州立大学機構は平成15年4月開学を希望
 9月21日、ミネソタ州立大学機構のアンダーソン総長から「秋田県とパートナーシップに基づく新しい大学については平成15年4月の開学を目指したい旨、理事会に提案する」との書簡が届き、開学の時期が初めて明示された。寺田はスケジュール的に可能と判断、残された時間はあとわずかとなった。

検討委員会で可決
 寺田は次の一手として平成12年度当初予算案に国際系大学基本構想策定事業費1300万円を計上した。教育プログラムの内容や、県立大学の学部とするか単独にするかの設置形態、開学の時期など国際系大学の構想を練るための学識経験者などで構成する基本構想策定委員会の立ち上げ費用などであった。
 平成12年2月29日、県議会2月定例会が開会した。知事説明に立った寺田は「国際系大学構想はミネソタ州立大学機構との協議や国内大学の調査などを踏まえ鋭意検討を進めてきた。現時点で構想実現の可能性は十分にあると判断している。来年度、具体的な大学像について検討したい」と、議会の理解を求めた。
 自民党は「議会に可能性調査の報告も出していないのに、基本構想の策定費が予算に盛られたのは遺憾」と、手続き論では反発したが、3月7日に代表質問に立った自民党の木村友勝議員は「日米両国における大学資格の可能性が十分にあるなど、よくぞここまでこぎつけたものと高く評価する。経済社会に対応していくためには国際系大学は必要であり、秋田から国際社会に通用する人材を育成するためにも、早い開校を願う。知事の前向きの決意を伺いたい」と、これまでの自民党とは180度違う質問をし、議場から拍手が響く一幕もあった。
 寺田は「大学構想実現の第一歩となる具体的な大学にしていく。ミネソタ州立大学機構から提案された平成15年4月開校を目標に積極的に取り組んでいく」と答えるなど、寺田と自民党との溝は埋まってきたかに見えた。
 寺田の指示を受け、事務方は質疑の中で設置形態を県立大第一義から変更、単独大学もあることや、基本構想策定委員会の5月発足、米留学で30単位を取得することが卒業資格の条件であること、雄和町のミネソタ大学秋田校の施設の活用も「選択肢の一つである」ことなど国際系大学の構想を明らかにしていった。
 しかし自民党はそれでも「説明不足だ」と抵抗、「構想策定」の名称にこだわって反対した。寺田は事業名を「調査検討事業」へ変更することで妥協し、予算案は可決した。寺田は板東副知事に検討委員の選考を指示した。条件はたった一つ「大学問題に最もとんがった考えの方の人を探してほしい」ということだった。

座長に中嶋嶺雄・東京外語大学長
 平成12年4月27日、坂東副知事が東京外国語大学の中嶋嶺雄学長を訪ねた。板東は3月に学術振興課が作成した「目指そうとする国際系大学(学部)の姿について」を示して、寺田の考えを説明、検討委員会の委員予定者名簿を添えて協力を要請した。日本の大学の在り方に危機感を持っていた中嶋は委員就任を快諾した。24日の記者会見で18人の国際系大学(学部)検討委員会の委員が発表された。

 中嶋嶺雄は1960年代半ばから10年間、中国で繰り広げられた文化大革命の本質を分析した「北京烈烈」(1981年筑摩書房刊)で第3回サントリー学術賞を受賞するなど世界的に著名な中国通の学者である。平成7年9月に東京外語大の第9代目学長に就任。大学の現状に危機感を持ちカリキュラム改革を進めていたが、既得権を守ろうとする教授会等の抵抗に遭って改革は頓挫した。寺田が板東に指示した「とんがった」中のまさしく第一人者であった。

 国際系大学(学部)検討委員会の初会合が5月、秋田市内で開かれた。座長に中嶋嶺雄・東京外語大学長が選ばれ、座長代理には辻兵吉・秋田商工会議所会頭が就いた。初回から活発な議論が展開され、少子化時代に生き残るための特徴をもった差別化の必要性や、大学院の設置、教員の任期制採用も提言された。
 委員会は月1回のペースで開催され、第2回は運営コストを巡る県の覚悟が問われた。第3回は学生定員を検討。第4回では「理想の大学をつくるには運営コストもかかる」と委員から寺田に決意を求められ「必要な対価は払っても人材育成は行う」と答える場面もあった。第5回目の検討委員会で「単科大学の方が特色ある大学運営が可能になる」とし「設置場所は雄和町が望ましい」ことで一致した。
 11月6日、最終の第6回検討委員会が開かれ、報告案がまとまった。大学の理念は「グローバル時代の未来を切り開くため英語をはじめとする外国語の卓越したコミュニケーション能力とグローバルな視野の伴った専門知識を身につけた実戦力のある人材を育成し、国際社会に貢献する」ことであった。設置形態は県立単科大学で、ミネソタ州立大学秋田校のキャンパスを活用して平成15年4月開学。学科構成は1学部3課程に留学生の日本研究課程を加えた4課程。1学年の定員は100人。教員は可能な限り外国人教師を採用、しかも任期制の導入を提案した。
 11月9日、中嶋座長は「答申の理念通りに実行して頂ければ、少子化の中でも十分生き残れるだけでなく、光り輝く大学になる」と語って寺田に答申した。
 それを受けた寺田は、13日の記者会見で「率直に言って、結論はどんでん返しだった」と驚いて見せたが「私もあの会議に出ていたが、一番純粋な形だと思う。これからの、学びのあり方を提言して下さった。日本のトップクラスの経験者である中嶋さんや野田さんが、明石さんも皆さん方が、これまでやってこれなかったことを、縛りがない形でやりなさい、という教えであり、最善の意見を出して頂いたと感謝している。答申を尊重して議会に臨みたい」と述べ、喜びに満ちあふれていた。

国際系大学の基本構想案を議会に提示
 寺田は12月定例県議会に国際系大学の基本構想案を提示した。自民党は2月定例県議会では「早い開学を願う」と賛成意見を述べていたが、その後の6月定例県議会では態度を一転、再び反対の声を強めた。12月定例県議会では、工藤嘉左衛門議員(自民)が「総体的な秋田県の高等教育を特別委員会でしっかり議論しよう」と発言。議会最終日の12月19日、自民党は本会議に「高等教育に関する特別委員会の設置を求める動議」を提出し数の力で可決した。目標とする平成15年4月の開学まで、あと2年4カ月しか残っていないこの時期に、県内の大学、短大全てを含めた高等教育のあり方について一から議論をやり直すことは、どこから見ても引き延ばしだった。

国際系大学設置費6千万円を提案
 2月定例県議会は2月16日開会。寺田は知事説明で「大学構想を提案してから1年半が経過した。議論を通じ明確になったことは、ミネソタ州立大学機構との連携と秋田校が培ってきた貴重な財産がなければ、生き残っていける国際系大学の実現は難しいことである。同大学から協力が得られる今こそまたとないチャンスであり、2003年(平成15年)4月開学の目標に向かって全力を挙げて取り組んでいく」と言明した。

自民が国際系大学設置予算を全額削除
 2月21日から代表質問が始まり、自民党の藤原俊久議員は「通常なら知事の改選期を控え、政策的な対象の極みと言える新規大学の設置に関する予算を、骨格予算の中に計上することは、民主主義の論理に反する姿勢と言わざるを得ない。大学の新設は絶対的な確信無しにスタートさせるべきでない。ミネソタ州立大学機構との協議内容を明らかにし、平成15年4月開学でなければ連携が困難になる具体的な論拠を伺いたい」と強く批判した。
 答弁に立った寺田は、平成10年7月のアンダーソン総長との会見からひもとき、開学目標に至った経緯を説明し「1年半にわたって協議を積み重ねた。共通目標の実現が可能との見通しの中で決めた。開学の時期を逸すれば国際信義を損ねることになる」と、一歩も引かなかった。

 2月22日の本会議で、高等教育に関する特別委員会の北林康司委員長(自民)が経過報告を行い、審議継続と報告した。国際系大学の予算案は総務企画委員会に移され議論されたが、自民党は「議論が不十分」と予算案の審査を留保。閉会が2日後に迫った3月6日、総括質疑が行われたが、両者の溝が埋まる気配は全く見えず、過半数を握る自民党の反対に国際系大学設置予算の通過は絶望となってきた。
 寺田は自民党三役と会談、減額修正を示唆し、創設準備委員会設置に関する2300万円だけに絞って「糸一本つないでおいてほしい」と申し入れた。自民党は7日「これを認めれば全てを認めたことになる」と拒否。3月8日の県議会本会議で自民党が提案した、国際系大学設置費6311万円を全額削除した修正案が可決した。

知事選の争点に
 国際系大学関連の予算が全額削除され平成15年4月開学の道を閉ざされた。寺田は直後に「無情だ」と語ったが「夢は持ちたい」と諦めてはいなかった。
 寺田は16日ミネソタ州立大学機構のアンダーソン総長とベケッチ理事長に親書を送った。その中で「2003年4月開学を目指して全力で取り組んできたが、県議会の理解が得られず、不可能になった」と伝えるとともに「国際系大学は新たな可能性を拓く絶好の機会であり、この大きな夢を捨て去るには忍びがたい」と思いを綴り、最後に「知事選挙が間近に控えており、県民の声を聞きながら、改めてご相談させて頂きたい」と、選挙で県民に是非を問うことを伝えた。


寺田氏は知事に就任した翌年の平成10年4月に学術振興課を新設。検討を指示するとともに自らも車を運転して密かにミネソタ州立大秋田校を視察し続けた。それから3年もの時間をかけ提案した国際系大学設置予算案は自民党県議団によって全額削除と無残な結果に終わった。それでも寺田知事はひるまず、知事選の争点に掲げ県民に問いかけた。平成13年4月15日、県民の審判が下った。

次回は、否決を乗り越えて国際教養大学が開学するまでを紹介したい。

※次回は2月14日に公開いたします。

電通女子社員の自殺と「遊・学3000」~『秋田よ変われ』より~その3

電通の新入女性社員が違法残業を強いられ過労自殺した問題は社会に大きな衝撃を与えた。厚生労働省は強制捜査に乗り出し、会社と幹部社員を労働基準法違反容疑で書類送検した。電通の社長は引責辞任を表明しているが、塩崎厚生労働相は「社長一人の辞任で済む話ではない。企業も文化を変える努力をしてもらいたい」と全容解明に手を緩めていない。亡くなった女子社員の母親は報道各社に手記を寄せ「日本の働く人全ての人の意識が変わってほしい」と訴えている(毎日新聞2016年12月25日朝刊)。問われているのは正にそのことなのだ。

国は2014年9月に長時間労働削減推進本部を立ち上げ、過重労働の撲滅や休暇取得の促進に取り組んでいるが、秋田県ではそれより18年も前に県の総合計画の柱に「時と豊かに暮らす」ことを据えた。

1年間は8760時間。睡眠や食事などの基礎的な時間と学業や仕事の時間を除き、個人が自由に使える3000時間を使って人生を充実させることによって、新しい価値観や可能性が生まれてくると考えたのだ。提案した当時ははほとんど理解されなかったが、今なら分かり合えると思う。「秋田よ変われ」から、豊かさの本質を探ってみる。


 

■「遊・学3000」あきた21総合計画を策定
30代の政策研究プロジェクトチーム

 コンピューターの2000年問題も無事過ぎ去り迎えた平成12年。寺田にとって大きな課題があった。県政の指針となる総合計画の策定である。前知事時代の平成8年3月に策定された秋田県新総合発展計画後期計画が平成12年度で終了するため、就任1年目の11月に見直し作業に着手していた。

 新しい計画には若手の考えを反映させようと30代の県職員の中から公募で26人を選び、県の人口が25万人も減少し高齢化率が33%になると予測されている2025年を見据えた政策研究プロジェクトチームを立ち上げた。

 平成10年6月定例県議会で、社民党の東海林建議員の「2年目を迎える知事の寺田カラーはどういうものか」との質問に「21世紀の秋田の姿を展望するビジョンについて検討を進めている。できるだけ早い時期に示したい」と策定作業に入っていること明らかにした。

 その寺田カラーは「遊・学3000」と表現される。突拍子もない不可解さから「狐につままれる」ような騒動が1年近く続くことになる。「遊・学3000」とは、1年は8760時間のうち2000時間は働き、寝食など基礎的な生活が1日10時間として3000時間は残る。その自由時間に焦点をあて、時間を個々人の大切な資源として捉え「心豊かな秋田を作ろう」という発想であり、「日本が、経済のグローバル化や環境重視社会へ転換していこうとしている時、変化に的確に対応していく上で有効な視点であり、秋田の未来を切り開く戦略的な視点である」というのが構想の原点であった。

 「あきた21総合計画」の策定に先駆けた平成11年5月、秋田の目指す方向を取りまとめた「時と豊かに暮らす秋田~新世紀『遊・学3000』ビジョン~」を発表した。

 当時の日本経済はバブル崩壊後の「失われた10年」と呼ばれた低迷の真っ只中で、有効求人倍率は0.4%台をさまよい求職難が続いていた。そんなご時世に「遊ぶ」とは何事ぞ「不適切だ」という反発が野党の自民党だけでなく「戦略なら産業構造の高度化だろう」と与党からも批判の声が上がった。

 寺田は「遊・学は自然や人との交流を促し、創造性に富んだ発想を持つ人材を育成し、新たな商品や技術の開発に結びつく。必要は発明の母。遊・学3000は産業の高度化に寄与し、経済の活性化を促進する役割を果たす」(平成11年6月定例県議会)と答弁し、粘り強く理解を求めた。

 しかしあまりに突飛な構想に周囲の理解は進まず、平成11年7月26日の記者会見では「(遊・学3000を)考え直す気はあるか」との質問さえ出た。寺田にとっては「賛否両論があるのが当然。議論を喚起するための『モグラたたきのモグラ』でもあった。これだけ議論されることは良いことだ」と、喜んでさえいた
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「あきた21総合計画」スタート
 9月に「あきた21総合計画」の骨子案がまとまり、年が明けた平成12年2月9日の秋田県総合開発審議会で承認された。「時と豊かに暮らす秋田をめざして」を掲げた新世紀の秋田づくりの指針となる「あきた21総合計画」が出来上がった。

 「遊・学3000」は「社会の持続的発展」など三つの基本的な視点を補完する秋田の可能性を拓く新たな視点と位置づけられた。計画は平成32年(2020年)ごろを展望した上で、平成12年度からスタートし、平成22年(2010年)までの11年間の政策、施策の方向を「基本構想」に、平成14年度(2002年)までの3年間の具体的な事業を「前期実施計画」として示し、5つの目標が掲げられた。

「安全・安心に楽しく暮らす秋田」
「チャレンジ精神豊かな人材が活躍する秋田」
「環境と共に生きる秋田」
「産業が力強く前進する秋田」
「地域が活発に交流・連携する秋田」

 そして、これから3年間で重点的に取り組む4つの政策が決まった。一つは平成32年には人口100万人を割る心配がある人口減少の抑制に向けた「少子・高齢化への対応」、二つ目は「雇用の確保と労働生産性の向上」、三つ目が「遊・学3000自由時間の活動等による優れた人材の育成」、最後が「経済活動や日常生活を支える基盤の整備」である。更に、計画は皆で進めようと7つの「夢パートナーシッププラン」が提案された。

 次が最も寺田らしいユニークな発想で、目標を達成するために21の政策を決め、各政策の下に70の施策を置き、186項目の具体的な数値目標を設定し、目標の達成度を毎年点検、結果を公表するとしたことだ。

 例えば「安全・安心に楽しく暮らす秋田」の基本目標に「みんなが安心して活躍できる健康長寿社会の実現」を政策として掲げ、その一つの施策に「生涯を通じた健康づくりの推進」があって、施策の目標は「生活習慣病死亡率」を平成11年度の人口10万人あたり598.2から、12年度は592、13年度は589、14年度は581と改善し、最終目標年度の22年度は510を達成しようというものだ。施策が実現していく姿を一目で分かる仕組みであった
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寺田典城氏が前知事から引き継いだ県の新総合発展計画は、「ハコモノ」をどれだけ作るかの計画だった。これは何も秋田県だけではない。田中角栄元首相の「日本列島改造論」以来、国も地方も長期計画といえば「ものづくり」計画だった。寺田知事は「行政は一貫した継続性が求められる」として、前知事から受け継いだ「ハコモノ」は完成させたが、自身が作ったハコモノは「中高一貫校」ぐらいで、ソフトの計画に徹した。「秋田21総合計画」策定に当たって、考えに考え抜いた結果たどり着いたのが「時と豊かに暮らす秋田」だった。

当時の県議会の反発は凄まじかった。「この不景気に遊びなどとんでもない」「ふざけている」と散々な目に遭っている。20世紀最後となる平成12年の仕事納めの記者会見では、一年を振り返った最も印象深い出来事として、大方の予想の国際系大学ではなく「あきた21総合計画」を挙げ、「立案し、計画して、結論を出すのに責任を感じた。一番エネルギーを注いだ」と語った。寺田氏は後に自身のブログ(2014.10.24)でも「平成不況の真っ只中では、自由時間を活用し、遊んで、学んで、人生を充実させようと言っても、『ふざけるな』と言われるのは仕方がないことだったかもしれない」と述懐している。 20年近くの歳月を要して、ようやく理解されつつあるところまで来た。

電通女子社員の訴えがきっかけとなって人々の意識が変わり、新しい価値観が生まれ、自分の時間を上手に活用し、ひとりひとりの人生を充実させることは、寺田氏が語るように「文化向上にもつながり、ひいては日本の活力の源にもなる」と共感する。

※次回は1月24日に公開いたします。

JR北海道の廃線問題について考える~『秋田よ変われ』より~その2

JR留萌線の留萌ー増毛間が廃線となり、俳優の高倉健が駅長を演じた映画「駅 STATION」の舞台となった終着駅である増毛駅が12月4日、95年の歴史の幕を閉じた。これは北海道の鉄道廃線大リストラの始まりである。深刻な経営難が続くJR北海道は、11月18日「単独では維持困難」と10路線13区間の廃線を打ち出し地元の市町村との協議を求めた。対象となる路線距離は同社の在来線の半分を超す。地方自治体には住民の足の確保のため、バス転換や第三セクター化などの選択が迫られる。乗客数の激減に加え多額な維持費がのしかかる赤字路線である。過疎化が進み財政悪化の市町村はどのように対応していくのか。かつての秋田県に再生のヒントがある。

30年前になるが国鉄民営化に伴い赤字路線廃止の大嵐が吹き荒れた。秋田県でも角館線や阿仁合線など3路線が廃線の危機に見舞われ、県は昭和59年に第三セクターの秋田内陸縦貫鉄道株式会を設立しこれを肩代わりした。不通区間を接続した秋田内陸縦貫線は開業当初こそは100万人を超える乗客があったが、寺田知事3期目に入った平成18年には50万人にまで落ち込んでいた。県の持ち出しは3億円を超し、鉄橋などの老朽化が激しく、県や沿線市町村がこれ以上維持し続けるには限界に近かった。しかし寺田知事は「廃線」の選択はしなかった。何故か。「秋田よ変われ」秋田内陸縦貫鉄道の項より紐解いてみたい。


 

赤字ローカル線
 整理・合理化の対象として最後まで残った23法人の中で、最大の難問が秋田内陸縦貫鉄道株式会社の処置だった。同社は昭和59年10月、県と当時の沿線8町村がそれぞれ1億1600万円を出資、民間の秋田銀行、北都銀行なども6800万円を出資して資本金3億円で設立された「絵に描いたような」第三セクターである。

 国鉄民営化に伴う赤字路線として昭和61年11月に、阿仁合線・鷹巣~比立内(46.1㎞)と、角館線・角館~松葉(19.2㎞)を受け継ぎ、沿線住民の足の確保を目指した。平成元年4月に不通区間の比立内~松葉間(29㎞)を接続、鷹巣~角館の南北94.2㎞を結ぶ「秋田内陸縦貫線」が開業した。昭和9年に鷹巣~米内沢間が開通して以来、半世紀をかけた地元住民の悲願の全線開通だった。

 開業当初の平成元年は年間利用者が107万人を超え順調な滑り出しだったが、その後は毎年乗客は減り続け、平成12年度は80万人台を割って79万人にまで減少した。開業当初から赤字が続き、12年度の経常損失は3億4300万円に達した。

 赤字を減らすため数度にわたり内陸線の利用促進運動が行われ、平成14年度からは「頑張る3年間」を実施、てこ入れを図った。企画列車なども走らせ乗客増加運動を繰り広げ、観光客を増やしたが、沿線地域の急速な進過疎化やマイカーの普及により肝心の地元の利用者である定期利用客が減少し16年度の輸送人員は50万人にまで落ち込んだ。

 会社は合理化を進め平成13年度に在籍した82人の職員を16年度には67人まで減らし、人件費を5000万円切り詰めた。それでも「頑張る3年間」を締めくくる16年度の経常損失は2億7400万円に上った。内陸線の再生を図るため平成15年12月、会社や沿線市町村の住民が参加した「秋田内陸線沿線地域交通懇話会」が設立され、18年度から5年をかけた再生計画がスタートした。
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存廃の決断は平成20年9月まで
 再生に向けた最後の機会とされた再生計画は初年度から躓いた。

 平成18年度の輸送人員は前年度を1万2000人下回る50万人と、目標の66万人を大きく割った。経常損失は2億6200万円で、県の支出した補助金は2億2700万円にのぼった。補助金を毎年10%ずつ減らし、最終的には県と沿線市町村の支出する補助金を1億5000万円に削減する計画は1年目で早くも破綻した。一方で鷹巣~米内沢間は開業から80年近く経ち、施設が老朽化しており早期の安全対策工事が必要となっていた。「会社の形態や経営者を改め、一定期間試行した上で存廃を判断する」などという悠長なことをやっている暇は無くなっていた。

 寺田は平成19年に入ると何度となく現地を訪ね、列車に乗り、結論を熟考した。そこで目にしたことは「地域からうまく利用されていない」ことで、「沿線地域が鉄道の価値を見出し、住民が積極的に利用して地域振興に活用していていかない限り、この鉄道の再生は難しい」が結論だった。

 19年6月定例県議会前の6月7日の政党内協議において「1年以内を目処に内陸線の存続か廃止かの結論を出す」と表明した。本会議の第3日、東海林洋議員(いぶき)に今後の対応を問われ「引き続き(再生)達成の努力は続けるが、並行して地域の足を確保するための適切な方策を検討する。(内陸線の)存廃を含めあらゆる角度から今後の可能性を見極めるため、県職員を会社に派遣するとともに、地元自治体とも十分に協議しながら、早期に結論を出したい」と答えた。寺田の「一年以内に存廃の決断」発言は、地元の住民に大きな衝撃を与えた。

 発言から半年経った平成20年1月28日の記者会見で「知事の腹は固まったのか」と聞かれた寺田は「どうやったら残せるか考えているが、方策はまだ出てきていない。このまま毎年3億円以上注ぎ込むことが、財政上耐えられるか。このままならあの会社は野垂れ死にする。路線を半分にする方法もあるが、(それが)良いのか悪いのか。いずれ夏までには結論を出さなければならない。出した結論には従って頂くしかない」と、決断の時期を「夏」までと明示した。

 4月21日の記者会見では「地域にとって有益であり、県全体から見て観光面などで有益性があって、初めて生き残れる。仙北市と北秋田市がどう責任を取れるか、一億円ずつ負担することが出来るか、議会が承認してくれるか。地域住民の皆さんが乗車してくれるか。県が誘客システムのサポートをどのように出来るか。早めに安全対策をしなければならない。速度制限をしながら騙し騙し使っている」と先の見えない実情を説明しながら、沿線住民に対して高いハードルを提示した。夏までとした期限は「今年の9月まで」と断定した。沿線の自治体は平成の大合併で8町村から北秋田市と仙北市の2市となっていた。

 寺田は4月下旬から内陸線トークを開始した。5月12日の記者会見で、地元住民の熱意をどう受け取ったか質問を受けた。「また癇癪玉を起こしたと言うのではないが、自分たちのレールだという意識を持ってもらいたい。仕事に車を使わずあれに乗ってみようとか、そういう心を持ってもらいたい」と、いま一つの物足りなさを率直に語った。それでも「(内陸線を)新たに造るとなると4,5百億円もかかる。歴史的な財産なんです。だから県民運動として県民だったら年に1回は乗るとか、当該市町村だったら3回ずつ乗るとか、そうしてみんなで支えない限りは無理だ」と、存続の考えを時折覗かせながら住民の意識改革を求めた。「9月に結論を出す」理由は「拙速という声もあるが、あれだけ老朽化した施設なので、安全性のためにはトンネルとか橋だとか早めに手を付けなければならない。先延ばしにすればいいという問題ではない。だから9月と言っている」と緊急性を強調した。
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地域の夢
 平成20年6月定例県議会で近藤健一郎議員(みらい21)が「内陸線の存続のための条件」を質問。寺田は「この鉄道の再生は北秋田市、仙北市と県が三位一体になって取り組むべきで、そのいずれかが欠けても達成は困難だ。経常損失額を地元自治体と県が継続的に負担出来る範囲に抑えることが出来るかどうかを検討していく」と解決策を模索中だと答えている。

 内陸線開業以来といわれる生き残りをかけた住民一丸の乗車運動が始まった。6月から地元市職員が定期を買って鉄道通勤に切り換えるなど、年間6万人程度の乗客増が見込まれた。地元の商工団体などに加え県内のいろいろな団体が県民ぐるみの存続支援活動を始めた。

 寺田も6月定例県議会に第三セクター鉄道の利用促進を図るためのファンクラブの創設や、体験乗車会を実施したりする「秋田の三セク鉄道魅力体験事業」を新設し250万円を計上して乗車運動を後押した。内陸線の乗客数は目に見えて増え出した。

 国も地域公共交通再生のための法律を改正し、鉄道や駅などの施設を自治体が保有し会社の負担を減らす公有民営化方式を打ち出し、安全対策工事の3分の1を補助することになった。

 9月まであと2週間足らずとなった8月18日、寺田から「財政負担」を求められていた岸辺陞・北秋田市長と石黒直次・仙北市長が県庁を訪ね、寺田と内陸線存続について話し合い、県と両市が三位一体となって内陸線を存続していくことで合意した。目標値などを詰めた最終合意は9月9日の三者会談で決定することになった。

 存続を決断した理由を聞かれた寺田は「経営的な視点からは断念すべきだというのが一般的な考えだし、私もそう思う。しかし、地域の夢だとか、高齢者対策を含めた公共福祉的な考え方、それに地域の方々にプラスして県民の方々が自分たちのレールということで活用して頂ければ、何とか年間60万人ぐらいの利用は維持出来るんじゃないか。高齢者など交通弱者の公共の福祉を含め、レールはこれからの時代に適っている。不採算路線を全部地方が受け持ち、JRは経営が間に合わなければ廃線にするという将来の鉄道の在り方も含めて、これを諦めて断念するよりもトライしてみる価値はあると思った」(9月8日記者会見)と、地域の夢にかけたことを明かした。
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5年の存続で県と2市の三者合意
 平成20年9月9日、県庁で寺田と岸辺陞北秋田市長、石黒直次仙北市長の三者会談が開かれ、平成24年度までに乗客を60万人に増やし、単年度の経常損失を6000万円までに減らして赤字額を2億円に圧縮することで、5年間の存続に合意した。損失や安全対策工事は県と両市が同等に負担することになった。

 寺田は9月12日から開かれた9月定例県議会で「県民乗車運動が活発化し、一定の乗客数の確保が出来る。国の地域公共交通再生のための支援が強化され、会社の負担軽減が図られることになった。両市、県及び会社の一体となった経営努力により収支の改善が見込まれる。両市からは今後の財政負担について理解が得られた」と内陸線存続を決断した経過を説明した。

 将来の財政負担増を危惧して最後まで態度を保留していた仙北市議会が11月25日、「三者合意の実現に向け最大限努力する」と決議。内陸線存続のための三位一体の取り組み体制が整った。寺田は「大変うれしい。これで仙北市が予算は通しませんということはあり得ない。早く乗車運動、誘客運動にエネルギーを注いだほうが良い」(同日の記者会見)と喜んだ。
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3年ぶりに乗客増える
 存続が決まった内陸線の平成20年度の輸送人員は47万人と前年を3万7000人上回った。売り上げも2600万円増え、2億2800万円を確保、経常損失は前年度から2000万円圧縮した。目標の60万人には遠かったが、前に動き出したことは確かだった。
⇒486ページ11行目から13行目まで


 

新聞記者になって口酸っぱく教えられたのが「現場百編」。本当のことを知りたかったら何度も事件現場に足を運べということだった。政治も同じことだと寺田氏から教えられた。

寺田知事は秋田内陸縦貫線存廃の判断をするため何度も現場を見て歩いていた。その結果が、文中の9月8日の記者会見の「地域の夢だとか高齢者など交通弱者の公共の福祉を含め、レールはこれからの時代に適っている。不採算路線を全部地方が受け持ち、JRは経営が間に合わなければ廃線にするという将来の鉄道の在り方を含めて、これを諦めて断念するよりもトライしてみる価値はある」との決断だった。 この時点で既に彼は、今日のJR北海道のような状況の到来を予見している。

それから3年後の平成23年3月、国は寺田知事の決断を踏襲するような、日本で初となる「交通基本法」を閣議決定した。

世界中を歩く鉄道交通問題の第一人者である宇都宮浄人・関西大教授は、著書「鉄道復権」(新潮社)のなかで、交通基本法がその理念に「共助」の視点を加えたことを評価し「高齢化・人口減少・デフレ経済という事態に直面する日本において、エネルギーを浪費せず、環境効率が良く、しかも老若男女の社会参加を促すことができる鉄道の価値は計り知れない」と指摘しており、寺田知事の思いと同じだと感じた。政治には具現化が求められる。無策のまま放置していたら廃線、そして地域の衰退という終着駅が待っている。

※次回は年明けの1月10日に公開いたします。

地方自治改革のヒント~『秋田よ変われ』より~ その1

■天井知らずの東京オリンピック開催費の問題■
小池百合子都知事が都政改革の柱の一つに据えた「五輪予算削減」は、ボートとカヌー・スプリント競技など3会場の移転が不発に終わり、「頭の黒い鼠一匹」に終わりそうだが、それでも数百億円は削減できそうだという。しかし削減できたといっても総額は2兆円とも言われている。

そこでついつい比較したくなるのが2001年8月に秋田県で開催された「ワールドゲームズ秋田大会」。オリンピックの公式競技に入れなかった競技団体が世界各都市で4年に一度開催してるもので「第2のオリンピック」と呼ばれるれっきとした国際大会である。秋田大会には93の国・地域が参加した。3年前に長野県で開かれた冬季オリンピックの参加72ヶ国・地域とほぼ同じ規模であり、一概にマイナー競技と切り捨てるのは早計だ。

その開催費用は、結論から言うとわずか21億円だった。ボート、カヌー・スプリント競技会場となる「海の森水上競技場」は一部仮設にして費用を削減するとしても約300億円はかかるそうだ。この会場一つで「ワールドゲームズ秋田大会」を15回開催できるのだ。何故秋田県でこんな奇跡のようなことができたのか。『秋田よ変われ』からその謎を解明してみる。


 

第1回大会は米国のサンタクララ
 ワールドゲームズはオリンピックの公式競技に入らない12の競技団体が集まり昭和55年(1980年)に結成、翌昭和56年(1981年)米国のサンタクララで第1回大会が開催された。競技人口も少なくマイナーと見られる競技種目も多いが、ここからオリンピック種目に採り上げられるものもあり、選手の意識もレベルも高く「第二のオリンピック」と呼ばれ、4年に1度世界の各都市で開催されてきた。秋田での開催が決まったのは平成8年10月、寺田が知事になる半年前だった。知事就任直後の平成9年6月「秋田ワールドゲームズ2001組織委員会」が設立され、寺田が名誉会長に就いた。会長は秋田魁新報社の林善次郎会長が就任した。8月、フィンランドのラハティで開かれた第5回大会に寺田は林会長と共に出席、大会旗を受け取ってきた。
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県の負担は14億円
 組織委員会は立ち上がったものの、不況の最中で大会の運営金も人も集まらなかった。林会長は毎日新聞秋田版(平成13年9月3日)の「思うぞんぶん」に「(苦労したのは)やっぱりカネと人。スタッフは最初は2人だけ。カネは県と民間半分ずつの計15億円でスタートしたが数字を積み上げてみたらとても無理だと。さてとなったところで知事が、国際大会なんだから思い切ってやろう、私に任せてくれということで、県がさらに8億円出してくれた」と裏話を披露し、寺田に感謝している。

 総額15億円を県と民間の折半で用意し、動き出した運営費用について、改めて県が試算し直したところ25億5000万円に膨れ上がった。式典関係を切り詰め運営本部を県庁内に移し経費削減に努め1億円を削り、費用は総額24億円と12月定例県議会に報告。財政事情の厳しい市町村と民間の負担は据え置く一方、県の負担は14億7200万円に決定した。

 寺田は林組織委員会会長との約束を実行に移し、更に平成12年1月1日付で企画調整部長の羽川正道を組織委員会の専務理事に派遣する人事を発令したほか、県職員70人を送り込んだ。
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観客は文化イベントも合わせて30万人
 8月16日~26日までの11日間は、競技は勿論、大会のもう一つの主要な目的である市民参加型の文化イベントが繰り広げられ、県内はワールドゲームズ一色に染まった。秋田市内に設けられたウエルカムセンターでは海外の選手と県民が茶道や生け花などで交流し賑わった。4千人のボランティアや、この大会に合わせて夏休みが延ばされた多くの小中学生も参加し盛り上げた。

 心配されたチケットの販売は目標の1億1,500万円を達成。26万人が目標の観客は文化イベントを入れ30万人に上り、大会の規模も動員数も過去最高を記録した。観客数が一番多かったのは大潟村で開催されたパラシューティングで約2万人、次いで水上スキーが9000人、コースは大潟村の排水路を利用したものだったが選手からは「こんな素晴らしいコースは見たことがない」と絶賛された。かかった費用は21億1000万円と、23億5000万円の予算内に収まり、残余金2億円は「あきたワールドゲームズ基金」としてスポーツ振興に役立てることになった。

 ワールドゲームズ秋田大会は26日にフィナーレを迎え、秋田の「熱い夏」は終わった。翌日の記者会見で寺田は「これだけ燃え上がったというか、感動を体験出来た11日間でした。この大会は県民にとって長く語り継がれることだと思います」と感動冷めやらぬといった語り口だった。既存の施設だけで開催したローコスト主義も、この後の平成19年に秋田で開催される国体を「日本一質素な国体」にしたい寺田にとっては「良い勉強になった。国体を開催した県は財政的に破綻状態になるとか、いろいろ話題になっているが、こういうことも出来ることを経験出来た」と自信を深められた大会だった。

 9月定例県議会で寺田は、大会成功の原動力は小・中学生や高校生を含めた多くのボランティアのフレンドリーな活動だったと感謝し「この大会は秋田に暮らす人々が、郷土の良さを再発見するまたとない機会となった。私達が祖先から引き継いできた伝統文化や秋田の大地・自然、そして県民の温かいもてなしの心は他に誇り得るかけがいのない財産であり、世代を超えて守り伝えていきたい」と総括した。
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 この大会で取り分け強く印象に残ったのが水上スキー競技だった。世界を舞台に闘ってきたアスリートたちが、八郎潟干拓で残された排水路を「こんな素晴らしいコースは見たことはない」と称賛したことだった。東京オリンピック・パラリンピックではアスリートファーストの名の下に競技会場が次々に作られる。レガシー(遺産)というそうだ。あとには多額な維持費や借金が次の世代に残される。寺田知事はいわゆる箱物のレガシーは何一つ作らなかった。代わりにアスリートや県民の心の中にレガシーを残した。既存の施設を活用した県民挙げてのボランティアで大会を盛り上げた国際大会に「頭の黒いネズミ」が忍び寄る利権は全くなかった。

地方自治 改革のヒント~『秋田よ変われ』より~ スタートします

 『秋田よ変われ 寺田県政12年』を秋田魁新聞社から今年3月出版いたしました、著者の寺田健一です。

 この本は、寺田典城前秋田県知事が食糧費問題など、長期にわたる保守政権によって積み上げられてきた構造腐敗の解決に奔走し、さらには国際教養大学の開設など革新的な政策を次々に打ち出した県政物語を綴ったものです。

 発売後、秋田県内はもとより県外から読書感をしたためたお手紙を多数いただきました。
時あたかも、東京都では舛添前東京都知事の高額な海外出張旅費や湯河原の別荘までの公用車での私用通勤などの不祥事が露わになり、知事の在り方が問われる事態が発生しました。

 いただいたお手紙には、「随分意欲的な知事がいたものだと感心しています。舛添(前都知事)に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい」(千葉県船橋市、男性)や「(寺田前)知事もすごいことをやったものと改めて思い知らされます。県内の公務員の方々の座右の書として広く購読されますことを祈念します」(秋田県横手市、男性)、「信頼を失いかけている地方自治体の長の在り方に信頼を再び取り返させてくれる時宣にあった著書と思いました」(東京都杉並区、男性)、「今の政治家たちがどれほど市民の前で誇れるか。秋田の人達のためにも(寺田前)知事は益々活躍してほしい」(宮城県岩沼市、男性)、「少子高齢化で痛めつけられ、人口減に悩む秋田ですが、どっこい県民は明日に向かって、なにくそと頑張っていると思います。その礎を寺田(前)知事は築いたのでしょうか。異彩を放つ国際教養大学についてじっくり読ませていただきました」(千葉県松戸市、男性)など、寺田県政に共感を示すものがたくさんありました。

 この夏、東京都に初の女性知事が誕生しました。小池百合子都知事は情報公開を訴え、豊洲新市場の盛り土偽装問題や2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催費用が3兆円を超すことに異議を唱え、都民から高い支持を受けました。テレビのワイドショーは連日、都政問題を取り上げお茶の間の話題を独占しました。豊洲新市場の問題で情報公開された文書は墨で真っ黒に塗りつぶされ「のり弁」と揶揄されましたが、秋田では20年前、食糧費問題でまったく同じような黒塗りの文書が登場しました。隠蔽体質は今なお続いているのです。

 この本で、帯のキャッチコピーを「おい、典城! お前ならどうする!」としましたのは、県政の問題に寺田前知事がどう対処したのかを知りたかったからです。これから月2回、今湧き上がっている地方自治の諸問題に寺田典城氏なら、どう対処し、どんな「解答」を出すのか、『秋田よ変われ』を引用しながら考えるヒントを紹介していきたいと思いますのでお楽しみに。

 

※次回は来週12月13日に掲載いたします。

県外唯一の取扱店です

3月末に出版されました、寺田健一・著『秋田よ変われ 寺田県政12年』ですが、秋田県外の書店では取り扱いが無く、お手に取っていただくには、秋田魁新報社出版部のサイト「さきがけの本」か、出版部に直接お申込みいただくか、通販サイト・アマゾンでのお取り扱いしか無い状態でした。

このたび、県外初のお取り扱い書店として、参議院内の歴史と由緒ある書店・五車堂書房さんに置いていただけることになりました。

「参議院 五車堂」で検索していただけるとお分かりになるかと思いますが、ご店主の幡場さんは、親子二代にわたって書店を経営され、参議院内には1967年からお店を開設。国会では「五車堂のおやじ」で有名な方です。国会内という場所柄、政治や法律、歴史に関する書籍などが多く、一般の書店とは異なった独特の品揃えをされており、他所ではなかなか手に入らない書籍も取り扱っておられます。

五車堂書房は国会議事堂の本館附属家という、ちょっと分かりにくい場所にあり、道路から直接入ることは出来ません。たどり着くには、参議院議員会館の通りを挟んで向かい側にある参議院別館の面会受付で参議院の衛視さんに「五車堂書房に行きたいです」と告げると、五車堂さんへの通行を許可してくださいます。

本館附属家は国会内見学では通らない、通常ではなかなか行けない珍しい場所です。永田町の近くにお出かけの節は是非足を運んでみてください。

出版記念会・国政報告会を開催しました

去る5月14日、3月末に秋田魁新報社より出版されました『秋田よ変われ 寺田県政12年』の出版記念と、6年間の国政報告を兼ねた会を秋田市にて開催いたしました。

皆様には、弊事務所の不手際で直前のご案内になりましたことをお詫び申し上げますとともに、当日会場にお運びいただきました沢山の方々に、この場を借りまして改めて御礼申し上げます。

はじめに、『秋田よ変われ~』の著者である寺田健一氏から、執筆での苦労話、取材の際の笑い話等の著作に関するエピソードのご披露があり、続きまして寺田から、参議院議員になってからの6年間についての報告を申し上げました。

お蔭さまで180席の会場はほぼ埋まり、最後には、ご出席の方々からのご質問も頂戴し、昨年秋の安保法制に関する国政報告会以来の活発な国政報告会になりました。
心より御礼申し上げます。

著者の寺田健一氏

会場の様子

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