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講演録「形あるものは必ず壊れる」 10

 環境~「水と緑の秋田」の回復

 それから、これからは環境が大事ですね。私は「水と緑の条例(秋田県ふるさとの森と川と海の保全及び創造に関する条例)」というものを作りました。これには私の個人的な考え方も若干入っていると思います。私は山登りが趣味なので、知事になってからも県内をよく登山して回っています。また、カナダのバンフ(世界遺産)などにも行って向こうの山も見て来ました。山に登りながら色々考えて「秋田県を50年かけて秋田の生態系に合った水と緑の県に戻そう」と決意しました。

 秋田は拡大造林政策に乗ってスギの植林をそれはそれは一生懸命にやったのです。当時はスギにとても価値があったからそれはそれで良かったと思います。昔の人のことを悪く言うつもりはありません。しかし、いまは緑は経済的な価値以外の、生態系の維持・回復という機能が重要で、自然保護の観点が見逃せなくなっている。これを抜きにしては行政も語れなくなっています。「21世紀は環境に対する償いの時代」という言葉がありますが、まさにそうであると感じます。この「50年」の根拠ですが、子どもが親のやったことの成果を見ることが出来るのがこのくらいの長さだからです。いま取り組めば、子や孫の世代がその成果を見てくれるでしょう。だから県民もイメージしやすいはずです。

 具体的に言いますと、秋田県はスギの人工造林を23万ヘクタールも推進していました。正直申しまして、これにより生態系を本当に壊しています。スギに合わないところまでスギを植えてしまっている。標高400~500メートルのところまでスギを植えています。しかし、青森側はきちんと純粋なブナ林です。この状態は、猿や鹿といった生き物への影響だけでなく、保水力など様々な面で生態系を乱しています。では、なぜ青森側は原生林が残ったのか。なぜだと思いますか? スギは植林できるけれど、ヒバは植林できないからだそうです。青森の木はヒバということですが、あまり植林に成功したことがないらしいです。自然に落ちた種子からしか育たないそうですね。元々あった生態系を傷つけてしまった秋田の反省として、ブナが良い所はブナ林に、混合林が良い所は混合林に、という形で生態系を回復したい。というのが「水と緑の条例」の趣旨です。

 それから森林県の知事として地球環境税についても触れさせてください。私は全国知事会では商工業と農業関係の委員会の委員長を拝命しています。しかし環境税については、完全に農業派と申しますか、産業界が反対している環境税について導入大賛成を唱えさせていただいています。ここはグローバルな視点を持つべきです。京都議定書の発効も控えています。国際公約を達成し、地球環境を守るために、豊かな森林を守る環境税の仕組みは必要だと考えています。

《11に続く》


※名称・敬称等は当時(平成16年11月)のままです。
※次回は2月2日に公開いたします。

秋田になぜ国際教養大学ができたのか~『秋田よ変われ』より~その4・上

今年のセンター試験も悪天候に見舞われた。受験生にとって過酷な2日間だったことだろうが、乗り切らなければならない試練の場だ。受験生の中には国際教養大学(AIU)を目指している方もいただろう。華やかな都会ではなく、時には「クマ出没警報」も出る秋田の森の中、開学してまだ12年足らずの若い大学だが、授業は全て英語で行われ1年間の留学が義務づけられる点が受験生の魅力となり、開学当初から東大並みの難関校となった。

「大学ランキング2017」(朝日新聞出版)によると全国の国公私立大学746校の学長(総長)が注目する大学では京都大学などに次いで3位、東大の上だった。
今でこそ「秋田の奇跡」と言われるAIUだが、開学までの道のりは厳しかった。

グローバル社会を見据えた人材育成の大学を目指したのだが、県議会、特に自民党議員には当初全く理解されなかった。理解しようともせず、数を頼みに強硬に反対した。予算案は否決され計画は消滅寸前だった。それでも今現実にAIUが存在しているのは、諦めずに議論を重ね、理解の輪を広げていった結果だった。

政治とはエネルギーのいるものだとつくづく思い知らされた国際教養大学の開学までの軌跡から、政治家の手腕とは何かを検証してみたい。

本文中の154ページ~178ページ
 第2章 新たなチャレンジ
  4.国際教養大への助走
  5.国際系大学否決される
からまとめたとは言え、かなり長い引用になるがお付き合いいただきたい。


ミネソタ州立大秋田校
 国際教養大学創設の原点はミネソタ州立大学秋田校にあった。

 昭和61年、キャンプデービットで当時の中曾根康弘首相とレーガン大統領との日米首脳会談が開かれ、将来を担う青少年がお互いに異文化を学び、相互理解を深めるにはアメリカの大学の日本校設立が重要ということで合意し、全国に呼びかけた結果、過疎に悩む自治体が、短期間に格安で大学が出来ると飛びつき、たちまち40を超す米大学日本校が産声を上げた。ミネソタ州立大秋田校もそのひとつで、昭和56年に町に秋田空港が開港した雄和町が、秋田の空の玄関口として、国際社会に対応した人材育成をと誘致に動き、平成2年5月開校した。

 秋田校は「日本に居ながらにして米国に留学出来る」ということで人気を呼び、初年度の入学生は定員の250人を上回る259人と上々の船出だったが、内実は他の日本校と同じく、開学当初から日本の大学との間に大きなハンデキャップを背負っていた。文部省の認定する大学ではなく、専修学校としてしか認められなかった。日本の大学卒業資格が取れないハンデから開学の翌年からは入学者は減り、きつい授業に耐えられず中退者が続出した。授業料が学校の収入の要であり、学生の減少は経営危機を招いた。

 寺田は就任後間もなく秋田校の財政難を知り、じっくりと検討を続けていた。平成10年4月学術振興課を設置し専従職員を置いて、秋田校をあらゆる面から研究させた。寺田も週末の土日を使って一人で車を運転し、昼となく夜も何度と秋田校に足を運び、熱心に勉強する学生の姿を見てきた。「秋田校は国際化の時代にふさわしい人材を育てるため、実践的な英語の教授法など特色ある教育活動を続けている。国際交流への貢献を含め、秋田県にとって貴重な存在だ」と確信した。

 寺田が「ミネソタに大いに関心を持っている」と語ってから1年が経ち、平成12年度の国の予算概算要求の時期が来て、6月28日、秋田県の施策・予算要望の記者会見が行われた。記者クラブが用意した質問の4点目にミネソタ州立大学秋田校の方向付けがあった。「あらゆる角度から検討している」と前置きして「県が支援を断念したら、将来どの様な問題が起きるか」「文部省の認可大学になれるか」「教育陣の問題、アメリカのカリキュラム、日本のカリキュラム、それからライセンスがクロスしてやれるのか」「ミネソタ州立大学機構はどのように考えているのか」など検討課題を挙げ「9月議会にはビジョンを出したい」と、初めて道筋を示した。

可能性調査費260万円
 事務レベルでの詰めの作業が盛んに進められ、「政党懇談会の後の記者会見で深く喋らせていただく」と寺田が約束した9月3日、国際系大学(学部)の基本構想を発表した。
 「国際系大学(学部)で世界の東西を結ぶ交流拠点の形成」と題された構想の実現のため、9月補正予算に国際系大学(学部)可能性調査事業として268万円が計上された。構想された大学(学部)は秋田校とは全くの別人格で、日本では初めてという日米両大学の卒業資格取得の可能性を求めた。また国際社会に通用する実践力重視の教育、ミネソタ州立大学との単位互換、国際ビジネスマンの養成などが盛り込まれた。
 文部省の認可が得られるか、NCA(米北部中央認定協会)の基準に合致するかなど、ハードルは極めて高かった。設置主体が国立や県立になると外国人は役職に就けない公務員特例法などの障害もあることも強調した。それを承知の上で「たとえ二百何十万円と言えども、秋田県の可能性を探る価値あるお金だと思う。時間をかけてもプラスにならないしできるだけ早く結論を出したい」と意欲を強調した。
 9月定例県議会の知事説明で「本県が21世紀に大きな飛躍を遂げていくためには、ビジネスや文化面などで更なる国際化の推進、とりわけ国際社会で十分活躍出来る人材を育成することが重要であり、新たな国際系大学(学部)の創設を検討する必要がある。ミネソタ州立大学との間に培ってきた交流を基盤とし、特色ある大学教育を追求していくことが最も望ましい方策であると考えている」と、全く別の新しい大学を創設すると表明した。
 これに対し野党自民党は「これは結局は秋田校の救済だ」「説明を聞いてもよく分からない。不明な点が多い」と一斉に反発。9月議会は121億円の補正予算の中のわずか268万円の国際系大学(学部)の調査事業に議論が集中した。事務方の答弁が微妙に振れることから審議はたびたび中断。最終的には「ミネソタとの連携は不可欠」とした答弁を「ミネソタは選択肢の一つ」と寺田が本会議で発言することで、事実上の答弁の修正を得たとして、自民党はこの調査費を認めた。寺田にとって、「不可欠」も「選択肢の一つ」も、意味するところは全く同じだった。パートナーはミネソタ州立大学機構しかいなかった。

ミネソタ州立大学機構は平成15年4月開学を希望
 9月21日、ミネソタ州立大学機構のアンダーソン総長から「秋田県とパートナーシップに基づく新しい大学については平成15年4月の開学を目指したい旨、理事会に提案する」との書簡が届き、開学の時期が初めて明示された。寺田はスケジュール的に可能と判断、残された時間はあとわずかとなった。

検討委員会で可決
 寺田は次の一手として平成12年度当初予算案に国際系大学基本構想策定事業費1300万円を計上した。教育プログラムの内容や、県立大学の学部とするか単独にするかの設置形態、開学の時期など国際系大学の構想を練るための学識経験者などで構成する基本構想策定委員会の立ち上げ費用などであった。
 平成12年2月29日、県議会2月定例会が開会した。知事説明に立った寺田は「国際系大学構想はミネソタ州立大学機構との協議や国内大学の調査などを踏まえ鋭意検討を進めてきた。現時点で構想実現の可能性は十分にあると判断している。来年度、具体的な大学像について検討したい」と、議会の理解を求めた。
 自民党は「議会に可能性調査の報告も出していないのに、基本構想の策定費が予算に盛られたのは遺憾」と、手続き論では反発したが、3月7日に代表質問に立った自民党の木村友勝議員は「日米両国における大学資格の可能性が十分にあるなど、よくぞここまでこぎつけたものと高く評価する。経済社会に対応していくためには国際系大学は必要であり、秋田から国際社会に通用する人材を育成するためにも、早い開校を願う。知事の前向きの決意を伺いたい」と、これまでの自民党とは180度違う質問をし、議場から拍手が響く一幕もあった。
 寺田は「大学構想実現の第一歩となる具体的な大学にしていく。ミネソタ州立大学機構から提案された平成15年4月開校を目標に積極的に取り組んでいく」と答えるなど、寺田と自民党との溝は埋まってきたかに見えた。
 寺田の指示を受け、事務方は質疑の中で設置形態を県立大第一義から変更、単独大学もあることや、基本構想策定委員会の5月発足、米留学で30単位を取得することが卒業資格の条件であること、雄和町のミネソタ大学秋田校の施設の活用も「選択肢の一つである」ことなど国際系大学の構想を明らかにしていった。
 しかし自民党はそれでも「説明不足だ」と抵抗、「構想策定」の名称にこだわって反対した。寺田は事業名を「調査検討事業」へ変更することで妥協し、予算案は可決した。寺田は板東副知事に検討委員の選考を指示した。条件はたった一つ「大学問題に最もとんがった考えの方の人を探してほしい」ということだった。

座長に中嶋嶺雄・東京外語大学長
 平成12年4月27日、坂東副知事が東京外国語大学の中嶋嶺雄学長を訪ねた。板東は3月に学術振興課が作成した「目指そうとする国際系大学(学部)の姿について」を示して、寺田の考えを説明、検討委員会の委員予定者名簿を添えて協力を要請した。日本の大学の在り方に危機感を持っていた中嶋は委員就任を快諾した。24日の記者会見で18人の国際系大学(学部)検討委員会の委員が発表された。

 中嶋嶺雄は1960年代半ばから10年間、中国で繰り広げられた文化大革命の本質を分析した「北京烈烈」(1981年筑摩書房刊)で第3回サントリー学術賞を受賞するなど世界的に著名な中国通の学者である。平成7年9月に東京外語大の第9代目学長に就任。大学の現状に危機感を持ちカリキュラム改革を進めていたが、既得権を守ろうとする教授会等の抵抗に遭って改革は頓挫した。寺田が板東に指示した「とんがった」中のまさしく第一人者であった。

 国際系大学(学部)検討委員会の初会合が5月、秋田市内で開かれた。座長に中嶋嶺雄・東京外語大学長が選ばれ、座長代理には辻兵吉・秋田商工会議所会頭が就いた。初回から活発な議論が展開され、少子化時代に生き残るための特徴をもった差別化の必要性や、大学院の設置、教員の任期制採用も提言された。
 委員会は月1回のペースで開催され、第2回は運営コストを巡る県の覚悟が問われた。第3回は学生定員を検討。第4回では「理想の大学をつくるには運営コストもかかる」と委員から寺田に決意を求められ「必要な対価は払っても人材育成は行う」と答える場面もあった。第5回目の検討委員会で「単科大学の方が特色ある大学運営が可能になる」とし「設置場所は雄和町が望ましい」ことで一致した。
 11月6日、最終の第6回検討委員会が開かれ、報告案がまとまった。大学の理念は「グローバル時代の未来を切り開くため英語をはじめとする外国語の卓越したコミュニケーション能力とグローバルな視野の伴った専門知識を身につけた実戦力のある人材を育成し、国際社会に貢献する」ことであった。設置形態は県立単科大学で、ミネソタ州立大学秋田校のキャンパスを活用して平成15年4月開学。学科構成は1学部3課程に留学生の日本研究課程を加えた4課程。1学年の定員は100人。教員は可能な限り外国人教師を採用、しかも任期制の導入を提案した。
 11月9日、中嶋座長は「答申の理念通りに実行して頂ければ、少子化の中でも十分生き残れるだけでなく、光り輝く大学になる」と語って寺田に答申した。
 それを受けた寺田は、13日の記者会見で「率直に言って、結論はどんでん返しだった」と驚いて見せたが「私もあの会議に出ていたが、一番純粋な形だと思う。これからの、学びのあり方を提言して下さった。日本のトップクラスの経験者である中嶋さんや野田さんが、明石さんも皆さん方が、これまでやってこれなかったことを、縛りがない形でやりなさい、という教えであり、最善の意見を出して頂いたと感謝している。答申を尊重して議会に臨みたい」と述べ、喜びに満ちあふれていた。

国際系大学の基本構想案を議会に提示
 寺田は12月定例県議会に国際系大学の基本構想案を提示した。自民党は2月定例県議会では「早い開学を願う」と賛成意見を述べていたが、その後の6月定例県議会では態度を一転、再び反対の声を強めた。12月定例県議会では、工藤嘉左衛門議員(自民)が「総体的な秋田県の高等教育を特別委員会でしっかり議論しよう」と発言。議会最終日の12月19日、自民党は本会議に「高等教育に関する特別委員会の設置を求める動議」を提出し数の力で可決した。目標とする平成15年4月の開学まで、あと2年4カ月しか残っていないこの時期に、県内の大学、短大全てを含めた高等教育のあり方について一から議論をやり直すことは、どこから見ても引き延ばしだった。

国際系大学設置費6千万円を提案
 2月定例県議会は2月16日開会。寺田は知事説明で「大学構想を提案してから1年半が経過した。議論を通じ明確になったことは、ミネソタ州立大学機構との連携と秋田校が培ってきた貴重な財産がなければ、生き残っていける国際系大学の実現は難しいことである。同大学から協力が得られる今こそまたとないチャンスであり、2003年(平成15年)4月開学の目標に向かって全力を挙げて取り組んでいく」と言明した。

自民が国際系大学設置予算を全額削除
 2月21日から代表質問が始まり、自民党の藤原俊久議員は「通常なら知事の改選期を控え、政策的な対象の極みと言える新規大学の設置に関する予算を、骨格予算の中に計上することは、民主主義の論理に反する姿勢と言わざるを得ない。大学の新設は絶対的な確信無しにスタートさせるべきでない。ミネソタ州立大学機構との協議内容を明らかにし、平成15年4月開学でなければ連携が困難になる具体的な論拠を伺いたい」と強く批判した。
 答弁に立った寺田は、平成10年7月のアンダーソン総長との会見からひもとき、開学目標に至った経緯を説明し「1年半にわたって協議を積み重ねた。共通目標の実現が可能との見通しの中で決めた。開学の時期を逸すれば国際信義を損ねることになる」と、一歩も引かなかった。

 2月22日の本会議で、高等教育に関する特別委員会の北林康司委員長(自民)が経過報告を行い、審議継続と報告した。国際系大学の予算案は総務企画委員会に移され議論されたが、自民党は「議論が不十分」と予算案の審査を留保。閉会が2日後に迫った3月6日、総括質疑が行われたが、両者の溝が埋まる気配は全く見えず、過半数を握る自民党の反対に国際系大学設置予算の通過は絶望となってきた。
 寺田は自民党三役と会談、減額修正を示唆し、創設準備委員会設置に関する2300万円だけに絞って「糸一本つないでおいてほしい」と申し入れた。自民党は7日「これを認めれば全てを認めたことになる」と拒否。3月8日の県議会本会議で自民党が提案した、国際系大学設置費6311万円を全額削除した修正案が可決した。

知事選の争点に
 国際系大学関連の予算が全額削除され平成15年4月開学の道を閉ざされた。寺田は直後に「無情だ」と語ったが「夢は持ちたい」と諦めてはいなかった。
 寺田は16日ミネソタ州立大学機構のアンダーソン総長とベケッチ理事長に親書を送った。その中で「2003年4月開学を目指して全力で取り組んできたが、県議会の理解が得られず、不可能になった」と伝えるとともに「国際系大学は新たな可能性を拓く絶好の機会であり、この大きな夢を捨て去るには忍びがたい」と思いを綴り、最後に「知事選挙が間近に控えており、県民の声を聞きながら、改めてご相談させて頂きたい」と、選挙で県民に是非を問うことを伝えた。


寺田氏は知事に就任した翌年の平成10年4月に学術振興課を新設。検討を指示するとともに自らも車を運転して密かにミネソタ州立大秋田校を視察し続けた。それから3年もの時間をかけ提案した国際系大学設置予算案は自民党県議団によって全額削除と無残な結果に終わった。それでも寺田知事はひるまず、知事選の争点に掲げ県民に問いかけた。平成13年4月15日、県民の審判が下った。

次回は、否決を乗り越えて国際教養大学が開学するまでを紹介したい。

※次回は2月14日に公開いたします。

講演録「形あるものは必ず壊れる」 9

 秋田県の情勢努力の結果

 全国の都道府県の人件費比率は、大体平均30%ぐらいだそうです。しかし、秋田県は平均23.7%(平成14年度決算)です。全国で低い方から3番目です。それでも民間から比べたら「濡れたタオル」だと思いますよ。これをまた絞っていかなければなりません。その一方で、公債費負担比率は28%と全国で低い方から2番目です。これは、それこそ秋田新幹線こまちを作ったり、温泉を掘ったり、過去にたくさん仕事をしてきたわけで、その借金をせっせと返しているということです。投資したことに対しての善悪は後世の方が判断すれば良いことだと思います。とにかく借金は一生懸命返しています。

 私が知事になって7年になりますが、以前の計画で決まっていた事業がまだ残っています。私が着任した時に、図面まですっかり出来上がっていました。最近になってようやく終わりそうです。以前の秋田県の計画というのはものづくりの計画だったのです。「ものづくり」をどうしてやるかではなく、「ハコモノ」をどれだけ作るかの計画でした。私の場合はそういう計画は作っていません。ソフトの計画だけです。私が作った箱モノというと…中高一貫校ぐらいは作ったかな、という程度です。他には秋田市内の警察署を2つに分けたりしました。県立体育館や県庁の第二庁舎は全て以前からの計画に載っていたのでやりましたが。芸術劇場などの構想は止めさせて、作らざるを得ないものもコストは遠慮なしに値切りました。県のゆとり創造センターは図面ごと撤回させて、5年以上も議論して、木造の「遊学舎」に変更させました。コストは大幅に下げましたが、素晴らしい建築になったので、地域のNPOの拠点としてよく利用してもらっています。それぐらいでしょうか。今春できた国際教養大学は従前からあった施設を再利用していますので、施設費はたった11億円しかかけていません。最後に残った大型プロジェクトは秋田中央道路ですね。行政は継続性が大事な面もあるので、当時私も継続を決断しました。しかし、今でもなお一層のコストカットに務めています。

 いずれにせよ日本の地域計画というのは、どこでもものづくり計画になっていました。日本の国土計画も「橋をこのくらい造ります。道路をこのくらい造ります」というのが主体の計画でした。今日ご出席の自衛隊の方を例に採れば、装備計画がすべての中心だったのです。これからはもっと戦略的なことが中心になるのでしょう? 防衛白書などを読むと、これからはテロ対策が主体になるのかどうかとか、隊員を12万人に削減すべきとも言われていますね。同じ時代の流れにあるのではないですか。

 4 これからは、教育・健康・環境

 それはともかく、これからの県政はものづくり計画ではないと思いますね。一番重要なのは、人材づくりと教育だと思います。次に、健康づくり。それから環境といいますか、生態系にあった県土づくりが大切です。

 健康~「介護のいらない高齢者づくり」

 「秋田県健康づくり推進条例」というものも作りました。ここには生活習慣病の予防などいろいろ書いていますが、要するにやりたいことはこういうことです。県の施設でリハビリセンターというのがあります。ここで取り組んでいるのが「介護のいらない高齢者づくり」です。適切な運動をすれば機能回復も出来るのだそうです。そのために高齢者の筋トレなどもやっています。介護認定を受けない老人を増やしていこうという県民運動を県民の健康づくりの基本に考えています。これからはいかに寝たきりを減らして社会的に生きてもらえるか、ということが大切になってくると考えています。私だって暇を見つけてはウォーキングに励んでいるんですよ。
《10 に続く》


※名称・敬称等は当時(平成16年11月)のままです。
※次回は1月26日に公開いたします。

講演録「形あるものは必ず壊れる」 8

 地方行政に職員は何人必要か

 さらに、市町村に対して「人口1000人あたり職員7人でやってください」と言っています。県庁は今は「人口1000人あたり職員4人」ですが「人口1000人あたり職員3人」でやる必要があります。県人口が現在116万人ぐらいですから、平成23年度には3500人体制が必要となります。組合とはまだ協議中ですが、実現するでしょう。断行しなければ秋田県は生き残れない。そのように考えています。県庁と市町村の役場を合わせた数で「地方公務員は人口1000人あたり10人」これが適正なレベルだと思っています。

 秋田県市町村要覧(平成16年度)という県でまとめている資料がありまして、いま手元にあるので見てみますと、各市町村の人口1000人あたりの職員数も掲載されています。秋田市で7.53人ですね。能代市は9.2人。横手市は6.84人です。私はかつて横手市長で「職員を300人にする」と言って頑張ってきたのでこの数で収まっています。自分でも経験してきたから分かるのです。もちろん条件としては、住民サービスのレベルを落とさずにいかに成し遂げるか、が重要です。

 そうして見ていくと、小坂町で人口1000人あたり13人以上。こうなると、合併しないで7人レベルに出来るだろうか?と疑問符がついてきます。大潟村は意外と財政力はあるし、人口も3000人ぐらいしかいないのですが、ここも18人以上。南外村なども18人以上いる。大体どこも12~3人はいるのです。これらの市町村がいかにして、この10年ぐらいで歳出の3割カット、人員の3割削減をしていけるのか。県庁と同じで、新規採用を抑えることで年1%ぐらいの人員カットは出来ると思うのです。年3%ぐらいは自然退職していくのですから

 何でも削れば良いということではない

 そのような行政改革を推し進めるとしても、削れないところもあります。それは、教育です。ここ5年間で、県行政の予算は6%削減されました。申し訳ないですが、特に削られたのが建設関係、公共施設関係です。5年間で25%カットです。人員も5年間で15%も削りました。

 その一方で教育は全く削っていないのです。むしろ増えているはずです。県は生き残るために必死の行革を続けていますが、これからの人材を育てていくことは、これからの行政にとって最も重要だと考え、教育にはそれなりの配慮をしているつもりです。

 どうなっても生き残れるように

 ともあれ、必死の行革をしているのはなぜでしょうか。今の三位一体の改革だって本当に求めている形になるかどうかは分からないと考えています。しかし、どんな事態になっても生き残っていける行政体を作ること、それが私に課せられた使命であると思っています。

 ですから、まちづくり計画を作っていただいている市町村長の方々にもこう申し上げています。「今すぐにそうはならないかもしれないが、近い将来、必ず税源移譲など三位一体の改革の形が実現する世の中になる。しかし、それを当てにはせずに、どう変わっても行政サービスのレベルを下げずにやっていける市町村行政を確立してください」と。

《9 に続く》


※名称・敬称等は当時(平成16年11月)のままです。
※次回は1月19日に公開いたします。

電通女子社員の自殺と「遊・学3000」~『秋田よ変われ』より~その3

電通の新入女性社員が違法残業を強いられ過労自殺した問題は社会に大きな衝撃を与えた。厚生労働省は強制捜査に乗り出し、会社と幹部社員を労働基準法違反容疑で書類送検した。電通の社長は引責辞任を表明しているが、塩崎厚生労働相は「社長一人の辞任で済む話ではない。企業も文化を変える努力をしてもらいたい」と全容解明に手を緩めていない。亡くなった女子社員の母親は報道各社に手記を寄せ「日本の働く人全ての人の意識が変わってほしい」と訴えている(毎日新聞2016年12月25日朝刊)。問われているのは正にそのことなのだ。

国は2014年9月に長時間労働削減推進本部を立ち上げ、過重労働の撲滅や休暇取得の促進に取り組んでいるが、秋田県ではそれより18年も前に県の総合計画の柱に「時と豊かに暮らす」ことを据えた。

1年間は8760時間。睡眠や食事などの基礎的な時間と学業や仕事の時間を除き、個人が自由に使える3000時間を使って人生を充実させることによって、新しい価値観や可能性が生まれてくると考えたのだ。提案した当時ははほとんど理解されなかったが、今なら分かり合えると思う。「秋田よ変われ」から、豊かさの本質を探ってみる。


 

■「遊・学3000」あきた21総合計画を策定
30代の政策研究プロジェクトチーム

 コンピューターの2000年問題も無事過ぎ去り迎えた平成12年。寺田にとって大きな課題があった。県政の指針となる総合計画の策定である。前知事時代の平成8年3月に策定された秋田県新総合発展計画後期計画が平成12年度で終了するため、就任1年目の11月に見直し作業に着手していた。

 新しい計画には若手の考えを反映させようと30代の県職員の中から公募で26人を選び、県の人口が25万人も減少し高齢化率が33%になると予測されている2025年を見据えた政策研究プロジェクトチームを立ち上げた。

 平成10年6月定例県議会で、社民党の東海林建議員の「2年目を迎える知事の寺田カラーはどういうものか」との質問に「21世紀の秋田の姿を展望するビジョンについて検討を進めている。できるだけ早い時期に示したい」と策定作業に入っていること明らかにした。

 その寺田カラーは「遊・学3000」と表現される。突拍子もない不可解さから「狐につままれる」ような騒動が1年近く続くことになる。「遊・学3000」とは、1年は8760時間のうち2000時間は働き、寝食など基礎的な生活が1日10時間として3000時間は残る。その自由時間に焦点をあて、時間を個々人の大切な資源として捉え「心豊かな秋田を作ろう」という発想であり、「日本が、経済のグローバル化や環境重視社会へ転換していこうとしている時、変化に的確に対応していく上で有効な視点であり、秋田の未来を切り開く戦略的な視点である」というのが構想の原点であった。

 「あきた21総合計画」の策定に先駆けた平成11年5月、秋田の目指す方向を取りまとめた「時と豊かに暮らす秋田~新世紀『遊・学3000』ビジョン~」を発表した。

 当時の日本経済はバブル崩壊後の「失われた10年」と呼ばれた低迷の真っ只中で、有効求人倍率は0.4%台をさまよい求職難が続いていた。そんなご時世に「遊ぶ」とは何事ぞ「不適切だ」という反発が野党の自民党だけでなく「戦略なら産業構造の高度化だろう」と与党からも批判の声が上がった。

 寺田は「遊・学は自然や人との交流を促し、創造性に富んだ発想を持つ人材を育成し、新たな商品や技術の開発に結びつく。必要は発明の母。遊・学3000は産業の高度化に寄与し、経済の活性化を促進する役割を果たす」(平成11年6月定例県議会)と答弁し、粘り強く理解を求めた。

 しかしあまりに突飛な構想に周囲の理解は進まず、平成11年7月26日の記者会見では「(遊・学3000を)考え直す気はあるか」との質問さえ出た。寺田にとっては「賛否両論があるのが当然。議論を喚起するための『モグラたたきのモグラ』でもあった。これだけ議論されることは良いことだ」と、喜んでさえいた
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「あきた21総合計画」スタート
 9月に「あきた21総合計画」の骨子案がまとまり、年が明けた平成12年2月9日の秋田県総合開発審議会で承認された。「時と豊かに暮らす秋田をめざして」を掲げた新世紀の秋田づくりの指針となる「あきた21総合計画」が出来上がった。

 「遊・学3000」は「社会の持続的発展」など三つの基本的な視点を補完する秋田の可能性を拓く新たな視点と位置づけられた。計画は平成32年(2020年)ごろを展望した上で、平成12年度からスタートし、平成22年(2010年)までの11年間の政策、施策の方向を「基本構想」に、平成14年度(2002年)までの3年間の具体的な事業を「前期実施計画」として示し、5つの目標が掲げられた。

「安全・安心に楽しく暮らす秋田」
「チャレンジ精神豊かな人材が活躍する秋田」
「環境と共に生きる秋田」
「産業が力強く前進する秋田」
「地域が活発に交流・連携する秋田」

 そして、これから3年間で重点的に取り組む4つの政策が決まった。一つは平成32年には人口100万人を割る心配がある人口減少の抑制に向けた「少子・高齢化への対応」、二つ目は「雇用の確保と労働生産性の向上」、三つ目が「遊・学3000自由時間の活動等による優れた人材の育成」、最後が「経済活動や日常生活を支える基盤の整備」である。更に、計画は皆で進めようと7つの「夢パートナーシッププラン」が提案された。

 次が最も寺田らしいユニークな発想で、目標を達成するために21の政策を決め、各政策の下に70の施策を置き、186項目の具体的な数値目標を設定し、目標の達成度を毎年点検、結果を公表するとしたことだ。

 例えば「安全・安心に楽しく暮らす秋田」の基本目標に「みんなが安心して活躍できる健康長寿社会の実現」を政策として掲げ、その一つの施策に「生涯を通じた健康づくりの推進」があって、施策の目標は「生活習慣病死亡率」を平成11年度の人口10万人あたり598.2から、12年度は592、13年度は589、14年度は581と改善し、最終目標年度の22年度は510を達成しようというものだ。施策が実現していく姿を一目で分かる仕組みであった
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寺田典城氏が前知事から引き継いだ県の新総合発展計画は、「ハコモノ」をどれだけ作るかの計画だった。これは何も秋田県だけではない。田中角栄元首相の「日本列島改造論」以来、国も地方も長期計画といえば「ものづくり」計画だった。寺田知事は「行政は一貫した継続性が求められる」として、前知事から受け継いだ「ハコモノ」は完成させたが、自身が作ったハコモノは「中高一貫校」ぐらいで、ソフトの計画に徹した。「秋田21総合計画」策定に当たって、考えに考え抜いた結果たどり着いたのが「時と豊かに暮らす秋田」だった。

当時の県議会の反発は凄まじかった。「この不景気に遊びなどとんでもない」「ふざけている」と散々な目に遭っている。20世紀最後となる平成12年の仕事納めの記者会見では、一年を振り返った最も印象深い出来事として、大方の予想の国際系大学ではなく「あきた21総合計画」を挙げ、「立案し、計画して、結論を出すのに責任を感じた。一番エネルギーを注いだ」と語った。寺田氏は後に自身のブログ(2014.10.24)でも「平成不況の真っ只中では、自由時間を活用し、遊んで、学んで、人生を充実させようと言っても、『ふざけるな』と言われるのは仕方がないことだったかもしれない」と述懐している。 20年近くの歳月を要して、ようやく理解されつつあるところまで来た。

電通女子社員の訴えがきっかけとなって人々の意識が変わり、新しい価値観が生まれ、自分の時間を上手に活用し、ひとりひとりの人生を充実させることは、寺田氏が語るように「文化向上にもつながり、ひいては日本の活力の源にもなる」と共感する。

※次回は1月24日に公開いたします。

講演録「形あるものは必ず壊れる」 7

 3 県の行政改革、市町村の目指すところ

 秋田県ではこの12月議会(平成16年)に条例を提出して、県から市町村への大幅な権限移譲をおこないます。いきなり「全部やってくれ」と言われても市町村も困るでしょうから、数年間かけてメニューをこなしてくれと言ってあります。県庁から人も出しますし、お金も出しますと言っています。秋田県のやり方は「県は市町村のサポーター」という立場に徹する、ということなのです。

 それに加えて、一昨年に発足した地域振興局の局長に契約などの権限をほとんど持たせました。県庁の支部である地域振興局単位で県庁のほとんどの仕事が出来るようにしています。市町村は県庁まで来ることなく、近くの地域振興局にすぐ相談して、アドバイスを得られる状態にしています。

 行政コストの3割カットでも耐えられる行政を

 しかし、市町村合併で例えば横手・平鹿郡が一つの市になると、それと同じ範囲の地域局があるのもおかしいですから、現在8つある地域振興局も今後は3つぐらいでいいということになります。そうなるしかないんです。そうなると秋田県庁にかかっていた5000人の職員は3500人でいいのではないか?となってきます。現在は既に4200人ぐらいです。1年に2%以上ずつ減員させていって縮減しています。毎年3%は退職して辞めていきますから、新規採用を1%に抑えれば可能です。

 そして、行政コストは昭和63年頃のレベルまで落とす必要があると考えています。あの時代は県予算が約6000億円程度です。地方交付税だって今は2400億円ぐらい来ていますが、将来は1600億円ぐらいしか国は払えない状況なのではないですかね。

 ですから、秋田県は三位一体の改革でどんな改革がなされても対応できるように考えています。交付税が将来3割削減されることは覚悟しておかなければなりませんから、3割カットされてもやっていける体制にしておかなければなりません。

 既に、合併していく市町村にも自立する市町村にも皆にこう言っています。「10年計画の中で歳出を3分の1ぐらいカットしてください」と。人員も3割ぐらいコストを切り詰めていかなければならないと思います。民間企業でも今は「資産は持たない、人は雇わない」という「身軽経営」がもてはやされています。いざ動く時に機敏に動ける、そして何より、生き残るための「身軽経営」が行政にも求められています。

《8 に続く》


※名称・敬称等は当時(平成16年11月)のままです。
※次回は1月12日に公開いたします。

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