秋田よ、変われ。 寺田すけしろ

秋田よ変われ

  • 秋田になぜ国際教養大学ができたのか~『秋田よ変われ』より~その4・上

    2017.1.24

    今年のセンター試験も悪天候に見舞われた。受験生にとって過酷な2日間だったことだろうが、乗り切らなければならない試練の場だ。受験生の中には国際教養大学(AIU)を目指している方もいただろう。華やかな都会ではなく、時には「クマ出没警報」も出る秋田の森の中、開学してまだ12年足らずの若い大学だが、授業は全て英語で行われ1年間の留学が義務づけられる点が受験生の魅力となり、開学当初から東大並みの難関校となった。

    「大学ランキング2017」(朝日新聞出版)によると全国の国公私立大学746校の学長(総長)が注目する大学では京都大学などに次いで3位、東大の上だった。
    今でこそ「秋田の奇跡」と言われるAIUだが、開学までの道のりは厳しかった。

    グローバル社会を見据えた人材育成の大学を目指したのだが、県議会、特に自民党議員には当初全く理解されなかった。理解しようともせず、数を頼みに強硬に反対した。予算案は否決され計画は消滅寸前だった。それでも今現実にAIUが存在しているのは、諦めずに議論を重ね、理解の輪を広げていった結果だった。

    政治とはエネルギーのいるものだとつくづく思い知らされた国際教養大学の開学までの軌跡から、政治家の手腕とは何かを検証してみたい。

    本文中の154ページ~178ページ
     第2章 新たなチャレンジ
      4.国際教養大への助走
      5.国際系大学否決される
    からまとめたとは言え、かなり長い引用になるがお付き合いいただきたい。


    ミネソタ州立大秋田校
     国際教養大学創設の原点はミネソタ州立大学秋田校にあった。

     昭和61年、キャンプデービットで当時の中曾根康弘首相とレーガン大統領との日米首脳会談が開かれ、将来を担う青少年がお互いに異文化を学び、相互理解を深めるにはアメリカの大学の日本校設立が重要ということで合意し、全国に呼びかけた結果、過疎に悩む自治体が、短期間に格安で大学が出来ると飛びつき、たちまち40を超す米大学日本校が産声を上げた。ミネソタ州立大秋田校もそのひとつで、昭和56年に町に秋田空港が開港した雄和町が、秋田の空の玄関口として、国際社会に対応した人材育成をと誘致に動き、平成2年5月開校した。

     秋田校は「日本に居ながらにして米国に留学出来る」ということで人気を呼び、初年度の入学生は定員の250人を上回る259人と上々の船出だったが、内実は他の日本校と同じく、開学当初から日本の大学との間に大きなハンデキャップを背負っていた。文部省の認定する大学ではなく、専修学校としてしか認められなかった。日本の大学卒業資格が取れないハンデから開学の翌年からは入学者は減り、きつい授業に耐えられず中退者が続出した。授業料が学校の収入の要であり、学生の減少は経営危機を招いた。

     寺田は就任後間もなく秋田校の財政難を知り、じっくりと検討を続けていた。平成10年4月学術振興課を設置し専従職員を置いて、秋田校をあらゆる面から研究させた。寺田も週末の土日を使って一人で車を運転し、昼となく夜も何度と秋田校に足を運び、熱心に勉強する学生の姿を見てきた。「秋田校は国際化の時代にふさわしい人材を育てるため、実践的な英語の教授法など特色ある教育活動を続けている。国際交流への貢献を含め、秋田県にとって貴重な存在だ」と確信した。

     寺田が「ミネソタに大いに関心を持っている」と語ってから1年が経ち、平成12年度の国の予算概算要求の時期が来て、6月28日、秋田県の施策・予算要望の記者会見が行われた。記者クラブが用意した質問の4点目にミネソタ州立大学秋田校の方向付けがあった。「あらゆる角度から検討している」と前置きして「県が支援を断念したら、将来どの様な問題が起きるか」「文部省の認可大学になれるか」「教育陣の問題、アメリカのカリキュラム、日本のカリキュラム、それからライセンスがクロスしてやれるのか」「ミネソタ州立大学機構はどのように考えているのか」など検討課題を挙げ「9月議会にはビジョンを出したい」と、初めて道筋を示した。

    可能性調査費260万円
     事務レベルでの詰めの作業が盛んに進められ、「政党懇談会の後の記者会見で深く喋らせていただく」と寺田が約束した9月3日、国際系大学(学部)の基本構想を発表した。
     「国際系大学(学部)で世界の東西を結ぶ交流拠点の形成」と題された構想の実現のため、9月補正予算に国際系大学(学部)可能性調査事業として268万円が計上された。構想された大学(学部)は秋田校とは全くの別人格で、日本では初めてという日米両大学の卒業資格取得の可能性を求めた。また国際社会に通用する実践力重視の教育、ミネソタ州立大学との単位互換、国際ビジネスマンの養成などが盛り込まれた。
     文部省の認可が得られるか、NCA(米北部中央認定協会)の基準に合致するかなど、ハードルは極めて高かった。設置主体が国立や県立になると外国人は役職に就けない公務員特例法などの障害もあることも強調した。それを承知の上で「たとえ二百何十万円と言えども、秋田県の可能性を探る価値あるお金だと思う。時間をかけてもプラスにならないしできるだけ早く結論を出したい」と意欲を強調した。
     9月定例県議会の知事説明で「本県が21世紀に大きな飛躍を遂げていくためには、ビジネスや文化面などで更なる国際化の推進、とりわけ国際社会で十分活躍出来る人材を育成することが重要であり、新たな国際系大学(学部)の創設を検討する必要がある。ミネソタ州立大学との間に培ってきた交流を基盤とし、特色ある大学教育を追求していくことが最も望ましい方策であると考えている」と、全く別の新しい大学を創設すると表明した。
     これに対し野党自民党は「これは結局は秋田校の救済だ」「説明を聞いてもよく分からない。不明な点が多い」と一斉に反発。9月議会は121億円の補正予算の中のわずか268万円の国際系大学(学部)の調査事業に議論が集中した。事務方の答弁が微妙に振れることから審議はたびたび中断。最終的には「ミネソタとの連携は不可欠」とした答弁を「ミネソタは選択肢の一つ」と寺田が本会議で発言することで、事実上の答弁の修正を得たとして、自民党はこの調査費を認めた。寺田にとって、「不可欠」も「選択肢の一つ」も、意味するところは全く同じだった。パートナーはミネソタ州立大学機構しかいなかった。

    ミネソタ州立大学機構は平成15年4月開学を希望
     9月21日、ミネソタ州立大学機構のアンダーソン総長から「秋田県とパートナーシップに基づく新しい大学については平成15年4月の開学を目指したい旨、理事会に提案する」との書簡が届き、開学の時期が初めて明示された。寺田はスケジュール的に可能と判断、残された時間はあとわずかとなった。

    検討委員会で可決
     寺田は次の一手として平成12年度当初予算案に国際系大学基本構想策定事業費1300万円を計上した。教育プログラムの内容や、県立大学の学部とするか単独にするかの設置形態、開学の時期など国際系大学の構想を練るための学識経験者などで構成する基本構想策定委員会の立ち上げ費用などであった。
     平成12年2月29日、県議会2月定例会が開会した。知事説明に立った寺田は「国際系大学構想はミネソタ州立大学機構との協議や国内大学の調査などを踏まえ鋭意検討を進めてきた。現時点で構想実現の可能性は十分にあると判断している。来年度、具体的な大学像について検討したい」と、議会の理解を求めた。
     自民党は「議会に可能性調査の報告も出していないのに、基本構想の策定費が予算に盛られたのは遺憾」と、手続き論では反発したが、3月7日に代表質問に立った自民党の木村友勝議員は「日米両国における大学資格の可能性が十分にあるなど、よくぞここまでこぎつけたものと高く評価する。経済社会に対応していくためには国際系大学は必要であり、秋田から国際社会に通用する人材を育成するためにも、早い開校を願う。知事の前向きの決意を伺いたい」と、これまでの自民党とは180度違う質問をし、議場から拍手が響く一幕もあった。
     寺田は「大学構想実現の第一歩となる具体的な大学にしていく。ミネソタ州立大学機構から提案された平成15年4月開校を目標に積極的に取り組んでいく」と答えるなど、寺田と自民党との溝は埋まってきたかに見えた。
     寺田の指示を受け、事務方は質疑の中で設置形態を県立大第一義から変更、単独大学もあることや、基本構想策定委員会の5月発足、米留学で30単位を取得することが卒業資格の条件であること、雄和町のミネソタ大学秋田校の施設の活用も「選択肢の一つである」ことなど国際系大学の構想を明らかにしていった。
     しかし自民党はそれでも「説明不足だ」と抵抗、「構想策定」の名称にこだわって反対した。寺田は事業名を「調査検討事業」へ変更することで妥協し、予算案は可決した。寺田は板東副知事に検討委員の選考を指示した。条件はたった一つ「大学問題に最もとんがった考えの方の人を探してほしい」ということだった。

    座長に中嶋嶺雄・東京外語大学長
     平成12年4月27日、坂東副知事が東京外国語大学の中嶋嶺雄学長を訪ねた。板東は3月に学術振興課が作成した「目指そうとする国際系大学(学部)の姿について」を示して、寺田の考えを説明、検討委員会の委員予定者名簿を添えて協力を要請した。日本の大学の在り方に危機感を持っていた中嶋は委員就任を快諾した。24日の記者会見で18人の国際系大学(学部)検討委員会の委員が発表された。

     中嶋嶺雄は1960年代半ばから10年間、中国で繰り広げられた文化大革命の本質を分析した「北京烈烈」(1981年筑摩書房刊)で第3回サントリー学術賞を受賞するなど世界的に著名な中国通の学者である。平成7年9月に東京外語大の第9代目学長に就任。大学の現状に危機感を持ちカリキュラム改革を進めていたが、既得権を守ろうとする教授会等の抵抗に遭って改革は頓挫した。寺田が板東に指示した「とんがった」中のまさしく第一人者であった。

     国際系大学(学部)検討委員会の初会合が5月、秋田市内で開かれた。座長に中嶋嶺雄・東京外語大学長が選ばれ、座長代理には辻兵吉・秋田商工会議所会頭が就いた。初回から活発な議論が展開され、少子化時代に生き残るための特徴をもった差別化の必要性や、大学院の設置、教員の任期制採用も提言された。
     委員会は月1回のペースで開催され、第2回は運営コストを巡る県の覚悟が問われた。第3回は学生定員を検討。第4回では「理想の大学をつくるには運営コストもかかる」と委員から寺田に決意を求められ「必要な対価は払っても人材育成は行う」と答える場面もあった。第5回目の検討委員会で「単科大学の方が特色ある大学運営が可能になる」とし「設置場所は雄和町が望ましい」ことで一致した。
     11月6日、最終の第6回検討委員会が開かれ、報告案がまとまった。大学の理念は「グローバル時代の未来を切り開くため英語をはじめとする外国語の卓越したコミュニケーション能力とグローバルな視野の伴った専門知識を身につけた実戦力のある人材を育成し、国際社会に貢献する」ことであった。設置形態は県立単科大学で、ミネソタ州立大学秋田校のキャンパスを活用して平成15年4月開学。学科構成は1学部3課程に留学生の日本研究課程を加えた4課程。1学年の定員は100人。教員は可能な限り外国人教師を採用、しかも任期制の導入を提案した。
     11月9日、中嶋座長は「答申の理念通りに実行して頂ければ、少子化の中でも十分生き残れるだけでなく、光り輝く大学になる」と語って寺田に答申した。
     それを受けた寺田は、13日の記者会見で「率直に言って、結論はどんでん返しだった」と驚いて見せたが「私もあの会議に出ていたが、一番純粋な形だと思う。これからの、学びのあり方を提言して下さった。日本のトップクラスの経験者である中嶋さんや野田さんが、明石さんも皆さん方が、これまでやってこれなかったことを、縛りがない形でやりなさい、という教えであり、最善の意見を出して頂いたと感謝している。答申を尊重して議会に臨みたい」と述べ、喜びに満ちあふれていた。

    国際系大学の基本構想案を議会に提示
     寺田は12月定例県議会に国際系大学の基本構想案を提示した。自民党は2月定例県議会では「早い開学を願う」と賛成意見を述べていたが、その後の6月定例県議会では態度を一転、再び反対の声を強めた。12月定例県議会では、工藤嘉左衛門議員(自民)が「総体的な秋田県の高等教育を特別委員会でしっかり議論しよう」と発言。議会最終日の12月19日、自民党は本会議に「高等教育に関する特別委員会の設置を求める動議」を提出し数の力で可決した。目標とする平成15年4月の開学まで、あと2年4カ月しか残っていないこの時期に、県内の大学、短大全てを含めた高等教育のあり方について一から議論をやり直すことは、どこから見ても引き延ばしだった。

    国際系大学設置費6千万円を提案
     2月定例県議会は2月16日開会。寺田は知事説明で「大学構想を提案してから1年半が経過した。議論を通じ明確になったことは、ミネソタ州立大学機構との連携と秋田校が培ってきた貴重な財産がなければ、生き残っていける国際系大学の実現は難しいことである。同大学から協力が得られる今こそまたとないチャンスであり、2003年(平成15年)4月開学の目標に向かって全力を挙げて取り組んでいく」と言明した。

    自民が国際系大学設置予算を全額削除
     2月21日から代表質問が始まり、自民党の藤原俊久議員は「通常なら知事の改選期を控え、政策的な対象の極みと言える新規大学の設置に関する予算を、骨格予算の中に計上することは、民主主義の論理に反する姿勢と言わざるを得ない。大学の新設は絶対的な確信無しにスタートさせるべきでない。ミネソタ州立大学機構との協議内容を明らかにし、平成15年4月開学でなければ連携が困難になる具体的な論拠を伺いたい」と強く批判した。
     答弁に立った寺田は、平成10年7月のアンダーソン総長との会見からひもとき、開学目標に至った経緯を説明し「1年半にわたって協議を積み重ねた。共通目標の実現が可能との見通しの中で決めた。開学の時期を逸すれば国際信義を損ねることになる」と、一歩も引かなかった。

     2月22日の本会議で、高等教育に関する特別委員会の北林康司委員長(自民)が経過報告を行い、審議継続と報告した。国際系大学の予算案は総務企画委員会に移され議論されたが、自民党は「議論が不十分」と予算案の審査を留保。閉会が2日後に迫った3月6日、総括質疑が行われたが、両者の溝が埋まる気配は全く見えず、過半数を握る自民党の反対に国際系大学設置予算の通過は絶望となってきた。
     寺田は自民党三役と会談、減額修正を示唆し、創設準備委員会設置に関する2300万円だけに絞って「糸一本つないでおいてほしい」と申し入れた。自民党は7日「これを認めれば全てを認めたことになる」と拒否。3月8日の県議会本会議で自民党が提案した、国際系大学設置費6311万円を全額削除した修正案が可決した。

    知事選の争点に
     国際系大学関連の予算が全額削除され平成15年4月開学の道を閉ざされた。寺田は直後に「無情だ」と語ったが「夢は持ちたい」と諦めてはいなかった。
     寺田は16日ミネソタ州立大学機構のアンダーソン総長とベケッチ理事長に親書を送った。その中で「2003年4月開学を目指して全力で取り組んできたが、県議会の理解が得られず、不可能になった」と伝えるとともに「国際系大学は新たな可能性を拓く絶好の機会であり、この大きな夢を捨て去るには忍びがたい」と思いを綴り、最後に「知事選挙が間近に控えており、県民の声を聞きながら、改めてご相談させて頂きたい」と、選挙で県民に是非を問うことを伝えた。


    寺田氏は知事に就任した翌年の平成10年4月に学術振興課を新設。検討を指示するとともに自らも車を運転して密かにミネソタ州立大秋田校を視察し続けた。それから3年もの時間をかけ提案した国際系大学設置予算案は自民党県議団によって全額削除と無残な結果に終わった。それでも寺田知事はひるまず、知事選の争点に掲げ県民に問いかけた。平成13年4月15日、県民の審判が下った。

    次回は、否決を乗り越えて国際教養大学が開学するまでを紹介したい。

    ※次回は2月14日に公開いたします。

  • ブログ
  • 秋田よ変われ